占領軍の日本の統治方針は民主化と非軍事化にあった。これによって警察制度も改革されていった。県警察部では戦時色を払拭するため、昭和二十年(一九四五)九月、戦時中に防空・警防などを業務とした警防課を不要事務を除いて保安課とした。さらに十月四日、連合国総司令部から政府あてに特別高等警察課の廃止指令がだされると、即刻同月六日に特別高等警察課を廃止し、それに従事していた職員一〇七人を罷免した。十二月には戦時中の経済統制担当の経済保安課を民政警察課とし、翌二十一年三月には労政、保険、国民動員の諸課を知事部局へ移管し、新たに監察官室、教養課、公安課を設け、非軍事化政策のもとで、戦犯捜査、解散団体や隠匿物資の取り締まりにもあたった。
しかし、警察改革は中央統制を堅持したまま漸進的におこなわれたにすぎなかった。このため、新憲法実施にともなう新事態にたいし、GHQは二十二年九月に警察力の中央集権的形態の廃止と地方委譲、国家地方警察と自治体警察の二本立て制、警察を管理する公安委員会の設置、など具体的な改革を指示した。これをもとにした改革案は十二月七日に国会を通過し、同月十七日に警察法が公布され、市および人口五〇〇〇人以上の市街的町村には自治体警察が設けられ、それ以外の町村は都道府県におかれる国家地方警察の管轄下に入ることになったのである。
警察法は昭和二十三年三月七日に施行されたが、それには早急な取りくみが必要で、長野県では法案の国会通過前の昭和二十二年十二月六日に自治体警察設置予定の市町村長と同議会議長を長野警察署に集め、新警察制度の実施要領、市町村公安委員会の性格と委員選任要領などを説明するいっぽう、翌二十三年一月十五日には国家地方警察長野県警察本部を四部一〇課体制としてスタートさせた。ついで、二月六日までに双方の人事を終了させ、二月九日に国家地方警察二一、自治体警察三七の警察署とその管轄区域を告示した。
これによって、長野市域には長野市、篠ノ井町、松代町に自治体警察署が設置され、それ以外の町村はそれぞれ国家地方警察の上水内地区警察署、上高井地区警察署、更級地区警察署、埴科地区警察署の管轄となった(表8)。しかし、警察署庁舎がその分だけあったわけではなく、自治体警察長野市警察署と上水内地区警察署はこれまでの長野警察署庁舎を二分して使用した。こうしたことは松代町警察署と埴科地区警察署松代警部派出所、篠ノ井町警察署と更級地区警察署でも同様であり、いずれも二月九日から新機構発足に向けて具体的な準備に入った。
警察法施行前日の二十三年三月六日、長野市役所市長室では市議会の同意をえた宮本操(県町)、花岡林之輔(吉田町)、黒澤三郎(県町)の三人の公安委員任命式がおこなわれた。抽選で任期、互選で委員長が決められ、委員長に宮本(任期三年)が就任し、花岡が二年委員、黒澤が一年委員となった。翌七日午前一〇時、長野警察署で長野市公安委員会は長野市警察長兼署長に警視島田正美を任命、島田警察長から警察職員への辞令交付があり、そのあと宣誓式、開庁式をおこなって長野市警察署(以下、市警)が正式に発足した。警視を除く職員は警部一人、警部補五人、巡査部長二〇人、巡査一〇三人、一般職九人の総計一三八人(『長野市勢一覧』昭和二十三年版)で、下部組織として巡査派出所一一ヵ所、巡査駐在所一ヵ所(高田)が設けられた。上水内地区警察署は警視・警部各一人、警部補五人、巡査部長一〇人、巡査五二人、計六九人で、自治体警察の松代町警察署は、署長の警部補北島正愛蔵以下署員一五人で、公安委員には真田幸治、真田真、宮坂淑が就任している。
発足間もなく、市警は二十三年四月に吉田巡査派出所を巡査部長派出所とし、同年八月には和田巡査派出所を新設した。また、十月一日からはこれまでの主任制度を廃止し、総務、刑事、警務、防犯、警備、交通の六課体制をスタートさせ、同月十二日には丹波島橋北に検問所を設け、市内に出入りする貨物自動車による重要物資の無許可輸送を取り締まった(『長野市報』第十八号)。いっぽう、市警充実のため、二十三年六月二十五日に長野市警察署後援会(会長・松橋久左衛門長野市長)ができた。警察思想の普及作興、科学的設備の充実による犯罪捜査の能率化、職員の福利厚生を目的にし、後援会基金四〇〇万円を目標に募金がおこなわれ、十一月までに二八〇万円余が集められた。
長野市の二十三年から二十五年までの強盗・窃盗・殺傷の発生件数は、年々減る傾向にあるものの、敗戦後の世相を反映してか窃盗(せっとう)が多く、年間に一三〇〇から一六〇〇余件を数えた(表9)。二十五年三月十五日からは特別警邏(けいら)隊を編成し、動く警察として昼夜市内を巡回して犯罪の予防、検挙、さらには暴力団や不良の輩の掃滅に力をいれている(『長野市報』第三十二号)。しかし、二十五年度の犯罪件数は、窃盗の一三九六件をトップに、詐欺(さぎ)一六五件、横領五九件、傷害五二件とつづき(表10)、検挙率も窃盗では四三パーセント弱とかなり低かった。
いっぽう、消防も警察制度の一環として改革されていった。これまでの警防団から防空業務が抹消され、さらに団員定数が大幅に削減されるなどし、長野市では二十一年四月一日に団員定数五〇〇人の新生警防団(団長笠原十兵衛・留任)が誕生した。しかし、戦争協力者が幹部に残存し、戦時団体の気風が抜けないことなどもあって、二十二年四月に内務省から消防団令が施行され、警防団は廃止されることになった。
長野市では二十二年八月十二日に第一回消防委員会(宮沢増郎ほか九人)が開かれ、八月二十三日には後町小学校講堂に市長、消防委員、旧警防団各分団代表が集まり、消防団正副団長の選出がおこなわれた。この結果、団長に岩崎国松(第三分団長)、副団長に篠原勤(第五分団長)・小山正直(第五分団長)、本部長に森山善太郎が選ばれた。八月三十日、各分団本部は解散式、宴会を催し、この日、警防団に終幕を引いた。明けて九月一日、午前六時から城山グラウンドで長野市消防団の結成式がおこなわれた。式後、八つの分団はそれぞれの管轄内小学校校庭で結成式をおこない、正式に消防団をスタートさせた。
二十三年八月十日、GHQ消防行政官ロバート・マーチン一行が来長した。彼らは長野市の消防施設を調査し、市長や市会議員に消防本部と消防署の設置を強く勧告した。これをうけ、市では九月一日、長野市消防本部を創設、発足させた。消防長一人、書記一人、消防職員二九人の陣容で、若松町の市役所本館前の建物においた本部には消防ポンプ車二台、水管車一台をおき、消防長森山善太郎のほかに、書記補一人、消防士長三人、消防士八人を常駐させた。もう一つは、軍政部のある若里には消防指令補一人、消防士長三人、消防士一四人を派遣し、ポンプ車一台を配置した。
消防本部の創設によって、長野市では常備消防へ力を入れることになるが、二十四年四月一日に長野市消防吏員及び消防団に関する条例を制定し、消防吏員定員を六三人、消防団定員を二六〇人とした。これによって、まず八月三日に消防団を一分団三二人ずつ八分団にし、ついで、八月十二日に消防本部に併設して消防署を発足させるとともに、三分所を設置し、消防士を常駐させた。本部員は消防長兼署長のほか、消防・予防・庶務の各主任とし、第一分所(二一人)を若松町(市役所内本部)、第二分所(二一人)を緑町、第三分所(一八人)を若里においた。第一、第二が三班、第三が二班体制であった。二十五年六月には市役所が改築落成したのにともない、消防本部と消防署は本館裏一階、第一分所は新たに設けられた半地下式の車庫裏に移転した。このとき、昭和二年以来の望楼を西南西に三〇メートルほど移転し、鉄骨を卜タンでおおっている。
二十六年一月一日には消防本部・消防署の機構改革がおこなわれた。おもな改革は本部当直指揮者宿直制の実施、各分所二交代の実施、第四分所(吉田)の開設であった。とくに各分所の二交代制によって、非番日を利用して一ヵ月のうち、四日を予防査察、一日を地水利調査にあてることができるようになり、特殊建築物や個人住宅の査察、危険物の取り締まり、地水利調査などに大きな効果をあげた。また、二十七年十月からは消防用超短波陸上無線電話が導入され、基地局と指令車との間で連絡・命令のやりとりができるようになった。
二十九年には可搬式ポンプが導入されるが、この年の四月一日、長野市は近隣一〇ヵ村が編入合併した。これによって面積はこれまでの約五倍・一五八平方キロメートル、人口は一・四倍の一四万九〇〇〇人に増加した。これにともなって長野市消防団は一団一八分団、団員定数一二〇〇人となった。