農地改革の実施と成果

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昭和二十年(一九四五)十月に誕生した幣原内閣のもとで作成された農地改革案は、閣議で修正されたうえ十二月の帝国議会で成立した。ところが、地主の土地所有限度を五町歩とした、この微温的第一次改革案の成立に先だって、それに不満をしめしていた連合国軍総司令部は政府にたいして、いっそう徹底した第二次改革法案の作成をせまった。第一次改革では既存の法律を改正する形式をとったが、第二次改革案ではその目的にそって自作農創設特別措置法案と農地調整法改正法案とにわけて提案され、二十一年十月の議会で成立した。

 前者の法律によれば、強制買収される農地は、①不在地主の土地全部、②在村不耕作地主の貸付地中所有限度(都府県平均一町歩)をこえる部分の貸付地、③在村耕作地主の自作地と貸付地の合計が所有限度(都府県平均三町歩)をこえる部分の貸付地となっていた。

 長野県の在村不耕作地主の保有限度は八反歩、また、在村耕作地主のそれは二町六反歩と決められていたが、自作農創設特別措置法では県内において平均が中央農地委員会の定めた基準を満たすなら、地域的差異を設けることを認めていた。表11は現長野市域の地区(旧町村)別に小作地の保有限度反別を整理したものである。在村不耕作地主、在村耕作地主の双方についてみると、土地生産力の高い川中島平では反別制限がきびしく、更級郡・上水内郡の山村部にあたる地区ではそれぞれ八反歩、二町五反歩と制限がゆるくなっている。


表11 現長野市域地区別小作地保有限度

 県内農地の買収・売り渡しは昭和二十四年三月には全体の九七パーセントにおよび、二十五年七月には一〇〇パーセントに達した。表12は農地改革の成果(二十五年八月一日現在)を郡市別にみたものである。Aは農地を買収された地主(在村地主と不在地主)総数にたいする在村地主数の割合であり、Bは総農家数(ただし二四年三月一日現在)にたいする農地売り渡しを受けた農家数の割合を示している。


表12 農地解放郡市別明細

 長野市は敗戦時と農地改革後ともに自作地率がもっとも低い。これは在村地主が比較的多かったこと、零細地主であったために、農地の解放をうけた農家が五五パーセントと極端に低いことと符合している。これにたいして、更級郡と埴科郡は長野市についで自作地率は低かったが、解放後八八パーセントに達しているのは、不在地主が多かったことにより全小作地が買収され、農家に解放されたためである。更級郡の平坦地では中津村と真島村を除いたいずれの町村ともに、不在地主数のほうが多い。

 長野県における小作地割合は全国比でかなり低かったのに、農地改革後の小作地割合は都府県比よりも若干上まわることとなった。これは長野県における小作地の大部分が、中小地主によって所有されていたために、解放の余地が少なかったことを物語っている。

 農地改革によって生じた農家の経営面積の変化は規模の縮小がいっそう強まったことに特徴づけられる。この縮小化傾向は不耕作地主や復員帰農者などによる耕地取り上げ等の事情によって、終戦前後から顕著となったが、農地改革によっていっそう強められた。それは、改革を回避しようとして分家、帰農等をおこなって新たに農家を新設したこと、改革による小作地の自作地化の過程で、経営の縮小を余儀なくされた農家(全国で総農家数の一九パーセントの農家、県内で二三パーセントの農家)があったことなどによっていた。

 農地改革の成果を長野市の自小作別農家戸数割合でみると、二十二年自作三六・五パーセント、自小作三二・〇パーセント、小作三一・五パーセントであったものが、二十五年自作五七・九パーセント、自小作三四・一パーセント、小作八・〇パーセントと、自作農が二一ポイントふえ、小作農が二三・五ポイント減っているが、二十五年においても三反未満耕作農家が全体の三四・四パーセント(三分の一強)も占めており、必然的に農地改革の成果に浴しにくかった階層が多かったことがあげられる。二十五年の兼業農家割合が八九・四パーセントと高いのもそのことと無関係ではないであろう。農地改革の成果としての自作農化は、農業生産の商品化割合をいちじるしく増大した。改革前には田の小作料は全生産額の三割に達するほどであったが、改革後の自作地化と小作料自体の統制によって、それはいちじるしく低下した。県経済部農政課による二十六年度農家経済調査中の更級郡(篠ノ井町・八幡村・大岡村・信里村・稲里村の五町村平均)五~一〇反規模層農家一戸当たりの農業支出五万九六五九円のうち、肥料代二万九八九円(三五・二パーセント)、小作料・賃借料八四九円(一・四パーセント)にみられるように、その後の農業生産力の向上に大きく貢献した。

 農地について占領終結後も農地改革の趣旨を守り、その成果を維持していくために、二十七年七月、農地法が制定された。それは農地改革の集大成でもあった。


写真17 昭和22年に配布の「農地改革早わかり」表紙