市町村農地委員会は農地改革の末端の実施機関であり、個々の農地・農民と直接接触して改革を遂行しなければならなかった。委員会は農民の選挙によって選出された委員によって構成され、委員定数は小作農委員五人、地主委員三人、自作農委員二人であった。また、必要に応じて知事の選任した委員を三人以内で加えることができた。
市町村農地委員会委員の選挙は、二十一年(一九四六)十二月二十日ころから始まったが、長野県農民の関心はきわめて低調であり、大部分の市町村の立候補者数は定員内にとどまり、無投票に終わった。そのことは、郡市別に投票をおこなった町村割合をみると、長水四三・三パーセント、上高井五七・一パーセント、更級二五・九パーセント、埴科二三・五パーセント(全県三五・一パーセント)という状況にあらわれている。個別的には寺尾村のように、地主側か立候補をこばんで選挙やりなおしを策し、身代わり候補に六〇歳の女性や二〇歳前後の若者を立てて嫌がらせにでたところもあった。また、山間部で農民組合が弱小か未組織の村で、地主勢力に圧倒された更級郡信田、信里、更府などの村では無投票であった。
さらに、委員の互選によって選出される会長は可否同数のときは決定権が付与されているので、会長の選出母体の利害が反映されやすく、委員会の意思決定に重要な役割を果たしていた。
二十二年一月末日現在で会長の郡別所属階層をみると、全県では自作四五・八パーセント、小作二八・一パーセントとなっているが、更級、上高井と長水では小作層の割合が各五一・九、四四・〇、四三・三パーセントと高い。これは戦後のはげしい土地取り上げの経験、歴史的な農民闘争地帯、農民組合組織の展開のいずれかの要因によるとみられた。
農地委員会の地主的性格は、賃貸借の解除解約統制に端的にあらわれているのであって、長野県の許可割合はいつも全国を上まわっていた。土地取り上げにたいする農地委員会の承認割合は、のちの二十四年末までの累計でみると、長水の五〇パーセントを除いて、おおむね八〇パーセントに達していた。これは委員会において、地主・自作委員の勢力が圧倒的であったことを物語るものである。
敗戦を契機にして、復員、徴用解除、軍需産業破綻による大量の失業群、食糧事情の窮迫に加えて第一次農地改革とより厳しい第二次農地改革の実施は、地主の耕作面積の増加、優良農地の確保をねらって土地の取りあげは熾烈(しれつ)をきわめた。小作地を取りあげられようとする小作農の反対闘争は、いっぽうで農民組合の急速な発展となってあらわれ、その闘争の過程で地主の土地取り上げを完封するために、小作農はいっそう強固な手だてとして土地管理組合の必要性を感じた。こうして小作地管理闘争のよりどころとして、二十三年十二月現在で長野市域では古里村耕作管理組合(自作・小作農民七五〇人、上水内郡)、東条村土地管理組合(自小作・小作農民九八入、埴科郡)、清野耕作者組合(耕作農民三二六人、同郡)の三組合が活動していた。
これとは対照的に、長野県では地主が反土地改革運動を展開したにしても、村単位で孤立分散的に発生したにすぎない。上水内郡安茂里村では二十二年五月、地主層農地委員ほか二人が中心となって地主擁護連盟を結成した。この村は全所有地の約四〇パーセントが犀川対岸の更級郡青木島村(二二町歩)、川中島村(一五町歩)等にあり、それらが不在地主農地として処理されることを根拠に、全村地主の組織化に乗りだし、農地改革の緩和・修正をうったえたが、署名以上の活動にはでず、翌年十一月に解散した。
農地の買収・譲渡が一段落した二十四年八月、長野市農地委員会では第二回の農地委員選挙がおこなわれた。投票所には長野市役所、芹田小学校、古牧小学校、三輪小学校が当てられた。『長野市報』(第二五号)によれば、「農地買収や売渡を完全に終わらせるとともに、折角の農地解放の成果がくずれないように、農地を管理し、売買、潰(かい)廃耕作権の移動などについての統制をおこない、土地取りあげをおさえます。そのために正確な農地台帳や耕地図も、完成しなければなりません」と、その後の委員会の重責を強調している。
ところで、長野市内で買収をめぐる大きな紛争としては、当時、つぎの二件が注目された。長野市では戦時中の軍事工場都市化を目標に企画した都市計画案を、戦後住宅問題の解決という見地からそのまま押しすすめようとして、二十二年三月県当局にたいして、都市計画整理地区内道路ならびに宅地造成地の指定を申請した。これにたいして耕作農民約二〇〇〇戸は、この申請が認められるならば、市内二八〇町歩現有農耕地が改廃され、地主の保有する農地が土地開放から除外されることになるので、絶対反対を表明した。
いっぽう、長野市議会においては、都市として必要な道路、工場・住宅・店舗の予定地域を農地化することには反対であり、区画整理地区内は農地法の特別除外地に指定してもらいたい、という折衷的な結論に落ちつき、県にその旨の意見書が提出された。これにたいし関係耕作農民は都市計画の全面的改廃を主張してゆずらなかった。こうした状況下で、二十二年十一月、内務省による区画整理地区指定基準の決定を契機に問題は急速に解決にむかい、一部買収保留を残して土地解放をおこなうことに決まった。
学校内農地解放問題としては、長野工業専門学校(現信州大学工学部)の敷地をめぐる紛争が注目を集めた。戦時中の十七年、軍部は航空機研究試験所用地として、長野市若里の農耕地四万坪を長野県に強制買収させたが、敗戦にともない、長野工業専門学校の敷地に転用されることになった。しかし、依然として実態は農地として耕作されていたので、長野市農地委員会は一万四四〇〇坪の買収を決定した。これにたいし県学務当局と工専側は同校の大学化にともない、運動場を新設するという理由で県農地委員会に買収除外を訴願した。日農県連が農民の支援をするなど農地をめぐって一ヵ年のはげしい攻防がつづいたが、二十三年三月、県当局と耕作農民との直接交渉の結果、総坪数のうち八四〇〇坪は現耕作農民へ直接提供し、六〇〇〇坪は学校用地として工専に提供する。これにともなう離作農民には、学校農園三〇〇〇坪と鐘紡長野工場が買収した自作農園三五〇〇坪を代地として売りわたす妥協案に調印し、県農地委員会の承認を得てようやく解決した。