長野市では昭和二十一年(一九四六)七月、農家が農協倉庫(長野市芹田)に運びこんだ麦・芋の検査をすぐに済まし、それらはただちにかたわらに待機するトラックに積みこまれ、食糧難にあえぐ市民のもとへ送りだされた。ようやく同月二十日過ぎになって農業倉庫へもたまりはじめたが、この光景は主食の米不足を補うためのひとこまである。
二十二年産米の供出完遂は、その数量と速さにおいて終戦後の新記録となった。これによって二十三年度の食糧事情は好転し、三月一日現在で政府手もち米は一五八〇万石に達し、前年同期の約二倍余りを確保することができた。このため、二十三年度からは、収穫量から一定の保有量を差しひき、残り全部を供出させるという従来の方針をあらため、植えつけ前に供出割り当てを農家に知らせる制度にかわった。そして農民が努力をして割り当て量以上に増産した分は強制供出の対象としないで、もし農家がこれを政府に売却を希望するときには、農家に有利な特別価格で買いあげた。
輸入食糧の大部分をしめる小麦輸入量は、二十一年二二〇万石(玄米石換算)、二十二年五一七万石、二十三年四〇七万石であったものが、二十四年には一一二六万石に急増した。こうした順調な輸入と、表13のように予想外に増加した二十四年産麦によって、県下の食糧事情はきわめて好転した。米についても二十四年産が予定よりも一〇万石も超過したため繰りこし分と合わせて十分県内をまかなえる状態になった。それにつれて一般消費者は押麦・小麦粉・乾めんなどをきらって、つぎつぎと配給辞退した。
このような米(雑)穀の供出完遂のためには、農家にたいする供出報奨物資配給制度が機能していた。二十二年度の埴科郡寺尾村へはつぎのような物資が割りあてられた。輸入たばこ一八〇個で供出量五斗以上に一個、五斗以下では二升五合に平均一本の割合であった。鯖削り節は五一七袋で、完遂農家五四九戸につき一戸一袋は渡らない数量である。甘味料のサッカリンは一四個で一農家あたり平均二粒であった。
豊栄村では二十三年度期限内に義務を果たした早期供出完遂の場合、米一俵につき国産たばこ五本と酒一合を配給し、知事の定める期日までに供出完遂した場合、米一俵につき、国産たばこ五本と酒一合のほかに繊維製品・作業用品購入券三点分が支給された。引きかえられる製品としては、綿製品一反(二五点)、作業手袋一組(五点)、地下足袋一足(一五点)、自転車チューブ一本(二〇点)、自転車タイヤ一本(二五点)などが協同組合・協同荷捌所に用意されていた。
供出完遂のために市町村長は幾度も通知をだして督促した。小田切村長は二十五年産米雑穀供出について、下北沢、三組の農家組合にたいして、「二十六年一月末日、貴組合の供出完遂せず、甚だ困却しております。来る二月二日午前中新橋倉庫に於いて同組合のために、検査をするにつき、今回を以て完了する様」つよく要請している。
小田切村の供米情報(二十五年十二月)によれば、同年度の供出米について、「ある村においては進捗(しんちょく)状況が思わしくなく、目標期限完遂が望めないことを憂慮(ゆうりょ)しているので、各位の協力によって知事の責任を完全に果たしたい」と報じている。そのときの詳報によれば、上水内郡内の現長野市域で、大豆島九六パーセント、柳原九六パーセント、安茂里九九パーセント、芋井九七パーセントの良好な産米供出成績にたいして、若槻、浅川両村とも六二パーセント、七二会にいたっては三五パーセントに過ぎなかった。
農家にたいする供出量を割りあてるのは、農業調整委員会であった。小田切村の同委員会『議事録』によれば、二十四年二月に、二十四年度産米雑穀・甘藷・ばれいしょ生産と供出割り当てが決められた。その前提となる水稲反当について村外の平坦部耕地は七等級に分けられ、最高二石八斗から五升さがりで最低等級二石五斗にした。これにたいして、村内耕地(山間地)は水利の関係により、最高一等級二石三斗から一斗さがりで最低五等級の一石九斗としている。ちなみに、春肥の割り当てもこれに準拠しておこなわれた。
絶対的食糧不足のもとで供出制度がつづくいっぽう、政府・県は肥料不足、農機具高騰のなかで、増産対策として、当時「革命的技術」といわれた稲の保温折衷苗代の普及や政策的増産事業などを精力的におこなった。
更級郡西山部の一毛作田の増収をはかるため保温折衷苗代の普及を始めたところ、二十五年のまきつけ面積は前年の一〇倍近くの好成績を示した。芽出し種子をまきつけ後、約一〇日間温床紙(油紙)でおおってから苗代に水を引くこの方法によれば、普通より一週間以上も早く成苗となり、それだけ早植えができた。従来、高冷地のため植えつけ不能となっていた晩熟多収穫種の農林十七号や十号も植えつけ可能となり、反当二石五斗に近い多収が見こまれ、いままでの普通苗代による稲にくらべ二割ないし三割の増収は確実とみられた。こうして同地域では一毛作田の緑肥用れんげ栽培の奨励とあわせて結果として米作生産費の引きさげも期待された。
朝鮮戦争勃発後、政府は二十五年八月の閣議で「食糧自給体制強化」を決定し、米麦の一割増産運動を二十六年から展開することになった。この運動は麦作から着手されたが、水稲の保温折衷苗代の奨励のため坪当たり二一円五〇銭が実施農家に交付された。県は二十五年度の実績と食糧一割増産の線に沿って、本県の特殊性を折りこみ二十六年度作つけ計画を各都市に指示した。
埴科地方の農産物展示品評会は、毎年各地で盛んにおこなわれた。豊栄村の場合、入賞はほとんど保温折衷苗代を励行した農林十号が占め、早植えと成育管理のよいものが群を抜いて好成績をおさめた。温床紙を使用して育てた稲は、イモチ病にも二十八年の冷害にも強かったことが実証された。
積雪寒冷単作地帯の農業生産条件をすみやかに整備して、農業生産力を高めるために、昭和二十六年三月に「雪寒冷単作地帯振興臨時措置法」(三十年度までの時限立法)が制定された。現長野市域では、更級郡信田・信里・更府、埴科郡豊栄、上高井郡保科・川田・綿内、上水内郡大豆島・朝陽・柳原・長沼・若槻・浅川・芋井・七二会・小田切の各村が県から振興対象地区として指定を受けた。
これにもとづいて、全国指導農業協同組合連合会は農林省からの委託を受けて更府村の調査をした。そして同村のかかえる問題点・課題を冊子化し、農業振興計画の策定・推進に役だてる資料として、関係町村に配布した。それによれば、水稲反当所要労働は四七日であって本県平均より一八日も多いのは、馬車の利用を可能にする農道が全く整備されていないことと、水利関係が悪いことがもっとも大きな原因であった。反当農業所得(昭和二十五年)は県平均の五〇パーセントにすぎなかった。稲作はわき水と天水に依存していたため、毎年干害等災害を被(こうむ)っていたが、水路の整備、温水ため池の完備に加えて、農道が計画どおり実施できれば家畜の利用がおこなわれ、堆厩肥(たいきゅうひ)の施用が可能となり、地力増進、適期作業が可能となるとされた。
小田切村では振興計画の一環として、土地改良事業(農道工事)と並行して二十七年五月制定の「長野県有畜農家創設維持要領」にしたがって、綿羊購入資金が融資されることになり、二度にわたって計二六戸(各戸一または二頭、一頭九円)が申しこんだ。役場では、家族構成、所有農地面積、飼育家畜構成などを考慮して、融資順位をつけて実施した。