戦前以来、長野県農業は米麦作と養蚕を中心に営まれてきた。昭和二十三年(一九四八)度の農家経済調査でも、農業収入の構成比は米作三二・三パーセント、養蚕一二・九パーセント、養畜一一・九パーセントであった。二十六年農業総合生産額(推定値、林産物含む)では米麦四一・九パーセント、養蚕一七・四パーセント、畜産九・一パーセント、果樹四・九パーセントなどで、養蚕の割合は戦前に比べるといちじるしく低下しているが、それでも米麦についだ地位をたもっている。そのようななか、長野市の二十五年農産物収穫高価額の構成比をみると、米が三八・六パーセント、麦二九・五パーセント、りんごを中心とした果物は一八・四パーセントとなっており、果物は米の半分をしめている。この構成比から、果樹作と二毛作が広く展開している長野市農業のようすがよくわかる。
県内の二十三年度養蚕農家数は総農家数の八・九パーセント(全国第一位)におよび、繭価の影響はきわめて重大であった。それにひきかえ、養蚕家の九割までが掃き立て量五〇グラム以下の小規模経営で、かつ二〇グラム以下が三分の一をしめていたので、このままでは生産費の低減はほとんど困難であった。しかも長野作物報告事務所の養蚕反当生産費調査によると、同年度で三八五七円の欠損(けっそん)になっている。このため合理化は稚蚕(ちさん)共同飼育をおし進めることになり、補助金による設立が奨励された。
更級郡更府村は、郡下に先がけて二十六年五月、電熱加熱による最新長野式飼育場三ヵ所の新築計画をたて、うち一ヵ所同村三水地区がまず完成し、三坪の飼育室で一度に二〇〇〇グラムの掃き立てが可能であった。このほか、町村の施設も前年来養蚕の好況からいずれも完備したものばかりで、公民館、公会堂などを利用するいわゆるもより飼育を合算すれば共同飼育の普及率は八割以上とみられる。
繭糸価格安定法が二十七年から施行となり政府で価格保証するため、養蚕農家の増繭意欲はいっそう拍車がかけられ、埴科郡では豊栄村を除き各町村に稚蚕共同飼育所が完備され、休止養蚕農家の復活も目だっている。
いっぽう、戦前の繭価暴落を契機として養蚕依存体質が反省され、畜産飼育など農業経営の多角化がさけばれた。その畜産振興にとっての隘路(あいろ)は資金問題と飼料問題である。資金については村および農協等の補助金・低利貸付資金ですんだが、飼料の大部分をしめる野草の供給地の確保が必要であった。埴科郡寺尾村の家畜頭数は郡下でも上位をしめていたが、その後の有畜農業の発展にとって多量の野草が不足するため、国有地河川堤防と河川敷内の野草の採取許可申請が県知事あてにだされた。
豊栄村は、立地条件から食糧作物の耕地に恵まれず、人口二四〇〇人の年間主食生産量は六ヵ月分にすぎない。同村の経営は山林と養蚕を主とし、畜産がこれについでいる。自然的経済的条件を活用して生産資源の合理化をはかるために、野草、蚕沙(さんさ)、蚕糞(こくそ)も活用しながら山林、養蚕とともに、畜産を主要三大産業と位置づけた。
上高井郡保科村では二十六年五月、無家畜農家の乳牛の飼養を促進するため、五反歩以上を耕作する農家にたいし五ヵ年間貸付する制度を設けた。借りうけ者が貸付乳牛を受領したときは、保証金二万円を村長に納入し、借り受け者は農業共済組合のおこなう家畜死亡廃用共済に加入する義務があった。
長野市の各家庭からでる残飯などを活用して、将来、長野市近郊を優良養豚地帯にする計画が地方事務所を中心にすすめられた。当時、市内からでる一日二五トンの残飯とごみが市役所の手で処理されていた。その後、ごみと残飯を分別して養豚方面に向けることになったが、すでに市内の某養豚商が各家庭と契約し集荷しているところもみられた。
このような各地の飼育活動の成果を信田村についてみれば、役肉牛は二十二年の八三頭から二十七年の一三六頭に、綿羊は同期間に八七頭から一五一頭に増加し、逆に馬は一四九頭から一一七頭に減っている。
食糧不足に悩む消費者は、収穫期の農村に行列をなして買いだしに殺到した。農村はこれら買い出し部隊のおとす現金によっていよいよ好況を示し、りんご栽培者や蔬菜生産者のなかには数千円、数万円の巨利をしめる者もめずらしくなかった。実際、二十一年の長野市内個人所得の長者番付によれば、第一位はりんご園経営者で、二位、三位は権堂の料亭経営者であった。
長沼村をはじめ長野税務署管内のりんご生産地八ヵ村の代表一〇〇余人は、二十二年三月二十四日、税務署に押しかけ、所得税の課税額が重過ぎると抗議した。税務署では、りんご生産者をことごとく統制下でやみ売りしていると決めつけていたが、一部の悪質者を除けばたとえ自由処分をしたところで生産費がかかっているため非難されるほどもうけはなく、したがって査定を引きさげてほしいというものであった。
ここでいう一部の悪質者の手口としては、つぎのような事例があげられる。りんごの大口やみ売り業者(商人)が摘発された場合、横ながしをした生産者も摘発された。このため大口売りだしは鳴りをひそめたが、りんごブローカーたちは持出制限の一人二貫目を悪用して、村の子どもを一〇円から一五円のこづかいで誘いだし、最寄り駅から長野駅間の往復切符をあたえて一緒に列車に乗りこむ手口をつかった。
りんご農家が高い所得を上げていると見なしたのは税務署のみでなく、一般市民も同様であった。りんご成金の村といわれる更級郡共和村は、りんご農家にたいする寄付があまりに多過ぎるとして、県下で初めて寄付条例をつくり、二十七年三月十日から実施した。同条例では、募集金品の経理の公明とみだらな行為を防ぐことを目的として、寄付募集をおこなおうとするものは一〇日前までに村長の許可を受け、村民も村の許可証を確かめてから寄付するよう呼びかけている。
こうしたりんご景気は、さまざまな経営努力の成果でもあった。りんご栽培技術の向上を目ざして、更級郡では二十六年七月、県下初めての園芸立毛品評会第一回審査をおこなった。また、同年、長沼村は県下随一のりんご生産地でありながら、村内の出荷組合が三ヵ所に分立していたため、規格、荷造りなどが不統一となり、市場でとかく批判を受けていた。この不評を一掃しようと、全村を一丸とする果樹振興対策協議会を結成し、品種の更新から始まって輸出問題対策にまでおよぶ一貫した振興方策をたてることにした。
しかし、こうした努力にもかかわらず、時として天災をこうむることは農業の宿命であった。二十五年九月のジェーン台風は千曲川沿岸地帯をおそい、長沼、朝陽、柳原などは強風をまともにうけて、りんご園の被害はいちじるしかった。長野市の一ヵ月当たり生計費が九二二七円であった当時において、長沼村などは一戸当たり五~六万円の損害をうけた。ジャム用のりんごも直撃を受ける寸前までは一貫目二五円であったが、翌朝になると半値以下の一〇円に値さがりし、この安値でも工場側はジャム価格の暴落を考えると手間賃にもならなかった。
二十六年十一月二十九日朝には、六〇年ぶりという寒波(篠ノ井、零下一六・四度)におそわれ、未収穫りんご(国光、インドなど晩生種)は全滅した。長沼村では国光の予定収量三〇万貫のうち約四割を凍らせてしまった。農産物品評会や秋の行事などで遊びすぎて収穫しなかったからだと、家庭争議がもちあがった家もあった。