農家経済と農業協同組合

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戦後の二十一年(一九四六)十月以降、農家経済は緩慢な低落状況をみせはじめたが、二十二年に入って、それは急速に悪化の傾向をたどっていった。農家の必要とする肥料、農業器具その他の生活必需品も入手が困難となった。農村は二十三年に入って異常な金づまりにおそわれた。急激なインフレの進行のなかで、工業製品の価格にくらべて農産物価格の上昇がおくれる「鋏(はさみ)状価格差」にみまわれ、農村の貯金は急速に減少していった。さらに税金に関して、長野税務署では二毛作田の査定基準が反当たり四七〇〇円と予想していたが、実際の農家所得は二五〇〇円という格差があり、それだけ過重な負担となった。

 県農業会が調査した二十一年度主要農産物の収益によると、ほとんどすべての農作物収支は赤字であった。これを米の一戸当たり所得についてみると、自作一五一円、小作三三六円となっている。この値は家族労働報酬(自家労賃)をふくまないものであり、これを見つもると、自作五七九円、小作三四七円の赤字になる。したがって農家経済を維持していくためには緊急避難的に、やみ経済に依存せざるをえなかった。同会が調査した二十二年七月における農村物資の価格指数は農産物にたいし農業資材、家計用品の指数がきわめて高いことを示している。ちなみに昭和十二年価格を一〇〇・〇とした場合、同年の各種物価指数はそれぞれ、政府米二一二〇(やみ米二万四二二八)、肥料類七七一〇、被服身の回り品類二万二五六三などであった。統制米価は市場価格のやみ価格を大幅に下まわり、かつ農家の購入品は割高となっていたので、必然的に家計を圧迫した。

 農地改革のすすむなか、零細農家の積極的対応としては、開墾による増反(ぞうたん)や出かせぎがあげられる。二十二年十二月時点で開墾状況を郡別にみると、表14のようになっている。山間の未墾地を多くかかえた上水内郡が入植・増反の戸数、面積ともに圧倒的な規模となっている。


表14 入植と増反

 埴科郡豊栄村農家の耕作反別は一戸当たり平均四反歩余に過ぎず、口減らしと賃かせぎのために二男、三男、娘たちの出かせぎが目だっていた。「生きていくためには」と、在村小作農家六〇戸が村内の雑木林を開墾し、増反入植の希望を県に申請したところ、特殊事情からすべて認可となり、皆神山頂付近(七町八反歩、三七戸)、桐久保地籍(一町一反歩、九戸)、小日向地籍(七反五畝歩、八戸)、岡ノ山地籍(三反歩、六戸)にそれぞれ入植し、二十六年から自立自営に第一歩を踏みだした。このうち、皆神山開墾地の一戸当たり割当面積は一反歩または二反歩で、それらの畑には小麦がもっとも多く、ほかに菜種・綿・ばれいしょ・大豆・粟などが作づけされた。松代町稲葉開拓地(八戸)では入植五年後、一戸当たり栽培面積平均八反歩で生食用いちごを作り、一戸平均七~一〇万円の収入を、さらに種じゃがいも・葉たばこをふくめて年収一戸二〇万円をあげた。三十一年に水道がひかれ、三十三年には電灯がついた。


写真24 松代町西条稲葉開拓地 (昭和30年11月「開拓十周年記念写真集」より)

 出かせぎのうち、山間地からの田植労務に関しては、短時間でしかも稲作上の重要作業なので長野公共職業安定所(職安)は、直接関係する各農業協同組合長あてに、需給両地の組合間において十分連絡したうえ、遺憾のない取りはからいを通知している。また、秋の稲刈り・麦まきの季節労務者については、二十五年十月十日に長野職安から小田切村長あてに送出依頼があった。「川中島・長野方面の平坦部農家より求人が十数件にのぼり、引きつづき申しこみを受ける状況にあったので、至急連絡してもらいたい。賃金は食事つき一日男子一五〇円かめどで、期日は十月十五日ごろより」とされている。

 長野市若里の鐘渕紡績は二十五年十月十五日から翌年三月末日まで、一八~二五歳までの女子の季節工(二〇〇人)を募集した。日給一六〇円(以上)で宿舎完備、布団貸与であったが、食費として月一二〇〇円が差しひかれた。また、この年には日本紡績業の増錘制限撤廃にともない、紡績各社から相当数の求人申しこみが予想されるので、小田切村でも労働者の「給源把握」と「供出確保」にいっそうの協力を、長野職安から要請された。

 遠方への季節出かせぎについては、毎年、篠ノ井公共職業安定所から各支所長(町村長)あてに、秋冬期季節労務者の求人がみられた。静岡・神奈川両県でのみかん収穫または缶詰工場の出かせぎであるが、三十年の資料によれば、静岡の缶詰工場に季節労働者として、七二会村から女子一五人、塩崎村から同八人が送出された。


写真25 小田切村農業協同組合のオート三輪車

 このように農閑期の出かせぎ収入に依存する農家もあるなかで、農家経済の向上・農業生産力の増進等を目的として、二十二年十二月に農業協同組合法が施行された。県からはしばしばラジオ放送を通じて同法の普及徹底がはかられ、各農家には「農業協同組合のいろは」というパンフレットが配布された。その内容は、農業会と農業協同組合の評価について、地主の農村における支配を維持する機関となっていた農業会を解体し、自主的な農民組織(農協)は、地主的性格をとりのぞき農業会を民主化するために活動する、と解説している。

 農協は二十三年八月までに発足することになったが、設立途上においてさまざまな対立があった。そのなかで、もっとも一般的なのは、①農業会と農民組合の対立、②総合組合と特殊組合との対立といわれ、後者は農民的なものにたいする商業資本的勢力の対立とみられた。

 準備期間を終えた二十三年八月三十一日現在の県下農協設立状況は、総合組合四三四、特殊組合二九八となり、市町村数(三八三)をはるかに上まわっていた。これは一市町村のなかでも数組合が設立されたのと、同年六月以降には、地区単位の協同組合は地方事務所の認可のみで設立できるようになったためである。特殊組合のうちもっとも多いのは養蚕協同組合であった(表15)。


表15 総合・特殊別農業協同組合設置数 (昭和23年8月現在)

 また、地区単位の旧実行組合組織を引きついだ共同(利用)施設も各地でみられた。「朝陽村南屋島農業実行組合」(一一〇戸)は郡下でもっとも地理的条件の恵まれた所にあった。二十五、六年ころから、若手幹部の献身的指導でめきめき優良地区を築きあげ、製紛・精米・精麦共同加工所・共同倉庫・共同野菜集荷所などをつくるとともに、大農具の導入に全力をあげ、二十六年春、県下のトップをきって電熱利用長野式稚蚕共同飼育所を築きあげるなど、郡下でも有数の実行組合となった。

 設立された農協の役員の前歴をみると、農業会系と日本農民組合(日農)系に分けられる。農協にたいする日農系の基本的態度は、農業会の完全解体、下から盛りあげる民主的農協の設立等であった。結果的にみれば日農県連の農協組織化対策は、役員構成の進出度合の劣勢にみられるように、失敗であった。その実態は、つぎのような数値に反映されている。農協役員の「農業会」対「日農」出身別員数比は更級郡九六対四九、埴科郡七三対四一、上高井郡四三対二八、上水内郡一二〇対一三七人であった。この原因は、①県連自体のなかに農協にたいする専門的知識をもった人材がなかった、②農地改革の進行が一般農民の日農にたいする関心を薄くした点などが指摘された。

 農協の設立は、当初からの乱立と脆弱(ぜいじゃく)性にくわえて農家経済の窮乏を反映して、二十四年十一月ごろから一様に深刻な経営不振に見まわれ、貯金の支払いを停止するもの五組合、その一歩手前にあるもの二〇余組合におよんだ。長野市域では表16の豊栄農協のように出資金と貯金のとぼしい組合では借入金に依存せざるをえなかった。景気低迷による購買品の滞貨も経営の不振に拍車をかけた。


表16 組合員1人当たり農協事業状況