商工会議所の成立と活動

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戦時体制のなかで、壊滅(かいめつ)状態におちいった長野市の商業は、敗戦後もその状態はしばらくはつづいた。統制経済のなか極端な商品の品不足をきたし、従来からの店はわずかに入手できた商品の販売のため、店頭を開くとすぐに売りつくす始末で、経営にいたる営業ができない状態であった。また、混乱に乗じたやみ屋が長野駅前や中央通りなどに小さな店舗を開き、わずかに得た商品を高額で売りさばく光景があふれた。極度な不況とインフレのなか、昭和二十二年(一九四七)の県・市民税の個人賦課額では「りんご屋・医者・魚屋は長野市で県、市民税の多い人」(『信毎』)と報じられたように、日々の食糧品を商う商店や振りうりに歩く農家が活況をみせていた。唯一の歓楽街であった権堂町では、ささやかな楽しみを得るための人出が多く、飲食店がしだいににぎやかさを増したという。

 このような状況のなか、長野市の商業もしだいに復興し、昭和二十一年の商店数一一九二店が、同二十三年には一五六六店に、同二十七年には二一九五店とめざましい回復ぶりを示した。こうした復興の歩みのなかで、統制経済の機構のひとつとしての長野商工経済会が廃止され、自主的な商工業者の団体としての長野商工会議所が再建され、商工業の再建と発展を促進することとなった。

 連合国総司令部が、いっさいの戦時立法を廃棄することを明確にしたなかで、政府は商工業者の団体である商工経済会も、同様に廃止する法律案を提出し廃止手つづきがとられた。この動きのなかで、戦前のような特別法に基づいた商工会議所の復活が商工業者を中心に各方面から強くもとめられたが、連合国総司令部は、①あくまで任意の制度として、民間の自主的設立によるものであること、②強制加入や一律の設置等非民主的な制度を有することは認められない、③法律に基づく商工会議所は認めない、④法律によらない、しかも政府の影響を受けない自主的な商工会はこれを支援する、とした。政府は再び商工会議所が健全な民間の機関として発達し、戦後の経済復興に積極的に寄与することを願い、その組織運営に基準を示し育成をはかった。そのため、昭和二十二年には全国で設立認可を受けたもののみで、戦前の一四四所をはるかにしのぐ二四二所を数えた。

 このようにして各地に設立をみた商工会議所は、当初特別な法的根拠をもつものでなく、一部商工業者の有志によるものであり、また、いずれも財政的に脆弱(ぜいじゃく)であったため、その活動も思うに任せない状態であった。そのようななか、活動の活発化をはかるためには法制化が必要との要望が徐々に高まり、連合国総司令部の了解も得られて昭和二十五年商工会議所法が国会で可決した。さらに、この法律は二十八年わが国の実情に適合するように改正をされていくことになる。


写真26 戦後間もない長野商工会議所広告祭 右側の食堂は外食券使用者の食堂 (『長野商工会議所百年史』より)


写真27 昭和20年代の衣料品店の合同宣伝 (『写真にみる長野のあゆみ』より)

 長野市でも新しい商工会議所設立の動きがたかまり、昭和二十一年八月、今村清見商工経済会理事長の名のもとに、新たな商工会議所設立についての懇親会の開催が提唱された。この懇親会には長野市の商工業界を代表する二四人が集まり、今村理事長から商工経済会の解散とそれにともなう新商工会議所設立の趣旨説明があった。ついで特別世話人一〇人を選出して新しい団体設立の準備をすすめることとなった。これにより九月、笠原十兵衛以下一〇人の設立準備常任委員を決定した。設立準備委員会は設立趣意書、定款、経費収支予算、設立発起、会員募集などについての原案をまとめた。この趣意書には「商工業者のために商工業者によって運営される商工業者の機関として、民主的に商工業の再建と発展を促進し、以て平和日本に寄与しようとするのが、我々の計画の根本趣旨である」とし、新たな商工会議所の性格をうたった。そして、七〇人の発起人を決定して、発起人総会の準備をすすめた。十月二十一日発起人総会を開催、総代に笠原十兵衛を選出し設立準備をすすめた。設立総会は十二月二十一日に開催されて、会頭に笠原十兵衛を選出し、以下二四人の常任委員と定款および予算などを決めて活動を開始することとなった。国からの認可は翌二十二年二月十日であった。このときの会員数は三九八入で、順次会員数を増やし二十二年末には四八五人を数え、さらに二十七年には一〇八〇人に増加している。また、年次順の決算額をみると表17のようで、飛躍的に発展している。(『長野商工会議所六十周年史』)


表17 長野商工会議所戦後の決算額

 こうして設立された長野商工会議所は、当初は目立った活動はおこなわれなかったが、商店街がしだいに活気を取りもどしつつあった二十年代後半から、商工業の振興のために活発に活動を展開した。荒れた商店街の美化および近代化のために、商店街診断をおこなったり、店頭装飾競技会や照明コンクールが実施された。また、各商店街の要請に応じて資料提供をしたり、官庁への渉外事務を担当して応援した。

 この時期一新した商店街施設には、二十七年に完成した石堂町、末広町、大門町のアーケードがあり、のち三十五年の中央通りのアーケード完成につながる。また、権堂町でも同年ネオンアーチと街路灯が完成し、しだいに明るさを取りもどしていった。

 商業技術の振興にも力をそそいだ。再建早々の二十二年には、珠算検定試験を日本商工会議所との共催で開催し、二十四年からは珠算や簿記の講習会を開催した。また、二十五年からは複式簿記要領講習会を、二十七年からは青色簿記講習会、計算尺教養講座、裁断裁縫技術講習会などが開催されている。

 特筆すべき事業に、祭り等行事の推進がある。再建の二十三年には直ちに恵比寿講大煙火大会を復活し、同時に長野商工祭を開催した。二十五年には一三年ぶりとなる祇園祭が復活し、屋台が巡回して権堂町のあばれ獅子も登場した。また、新たな祭りとして七夕祭りがあげられる。これは権堂町が率先して始めたものであるが、しだいに各町に広がり、二十六年には商工会連合会が主催となって夏の長野市の名物になった。七夕祭りと同時におこなわれる裾花河畔納涼煙火大会は、市商工会連合会と共催しておこなわれた。これは三十二年に祇園祭の煙火大会へ、そして三十三年からの長野夏まつりに引きつがれた。


写真28 昭和23~27年の商工祭・恵比寿講煙火打ちあげ順プログラム

 敗戦間もないこの期に、商工会議所が携(たずさ)わった最大の行事は、長野県と長野市との三者共催で二十四年に開催した平和博覧会である。ちょうどこの年、戦時中しばらく中断を余儀なくされていた、善光寺の開帳がとりおこなわれることになっており、いっそう盛大で長野市の商業活性化のために有意義なものとなった。

 商工会議所の活動は、そのほかに信越線列車運行の充実や中央線電化の陳情をおこなったり、市内循環バスの運行に関する建議書や、犀川南部地域との密接な交流を確保するために、川合新田地籍の犀川に架橋をすべきであるとの建議書を市長あてに提出した。また、上千歳町に展開していた青果・魚介市場の移転や電話網の促進整備にも、意見書や陳情書を提出するなど、都市基盤整備にかかわる活動も展開した。循環バスについては三十三年になってようやく要望が実現し、長野駅を起点にして緑町、善光寺下、新町、桜枝町、西長野、妻科、昭和通りを走る循環バスが、川中島自動車株式会社によって運行された。

 また、税に関しては、二十年代前半はとくに税制の激しい変動期であり、混乱が生じたため、その混乱を収めるために税務行政に協力して、新税制に関する各種説明会や講演会を開き、税務研究会を立ちあげた。この税務研究会は税務署と密接な連携をとり、納税思想の啓蒙普及と、納税成績を高める活動をおこなった。いっぽう、新税反対および適正化の運動も同時に展開することとなり、とくに、二十年代後半はその活動を活発化していった。