新円発行と金融業

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戦後の食糧不足や生活物資の欠乏は物価のはげしい高騰(こうとう)をみた。その結果、市民は戦時体制のもと、貯蓄運動によって蓄えた預貯金の引きだしに走った。とくに、財産税創設と新円切りかえのうわさが流れると、換物傾向がいっそう強まり、預貯金の引きだしに拍車がかかった。

 いっぽう、企業は軍需工場が民需生産に転換するための資金や、復興資材の確保、賃金上昇に対応するなどの資金需要が急増した。この結果、銀行の資金繰りが逼迫(ひっぱく)したため日本銀行貸出金は急増し、敗戦直後二七一億円から一年半余りで四四二億円余りとなり、インフレにいっそうの拍車をかけた。

 危機的インフレを阻止するために二十一年(一九四六)二月十六日政府は緊急対策を発表した。この緊急対策の内容は金融から物価・流通といった広範囲におよぶもので、なかでも強力に実施されたのは金融および通貨対策であった。それは「金融緊急措置令」による預金封鎖と「日本銀行券預入令」による新円切りかえである。この措置は預金および現金の流通を凍結することにより、過剰な購買力をおさえてインフレの進行を阻止しようとしたものであった。具体的には、①二十一年二月十七日現在で全金融機関の預貯金を封鎖し、その支払いを停止する、②市中に通用中の一〇円券以上(のちに五円券も追加)の日本銀行券(旧円)は三月二日限りでその通用力を失い、三月七日までに金融機関に預けいれる。ただし一人当たり一〇〇円を限度として新円と交換できる。預けいれた旧円は封鎖預金とする、③生活費については、世帯主は月額三〇〇円(のちに一〇〇円)世帯員は一人当たり月額一〇〇円を封鎖預金から払い出すことができる、④事業資金については、給与の支払い資金と交通費などの事業用雑費は払い出しを認め、他の支払いは振り込みや封鎖小切手などにより受取人の封鎖預金への振替の形でおこなう。給与は一人五〇〇円までは新円で支払われるが、それ以上は封鎖預金とする、というものであった。

 これらの措置にともなう旧円の預金受けいれおよび新円との交換は限られた短期間に集中しておこなわれたので、市内の金融機関の窓口には大勢の市民が押しよせた。また、その後の封鎖預金支払いに際しては、正確を期すために米穀通帳等の提出を受け、適法であることを確認する手つづきなどが通常の業務の上に加わり、銀行業務は煩雑になった。その上、臨時財産調査令に基づく申告書も金融機関が受けつけることとなり、申告書の確認申告済み証紙の添付などの仕事が加わった。さらに、封鎖預金支払いの厳正を期すために、封鎖預金にかかわる事務に関するかぎり銀行員は公務員とみなされ、違反があった場合重い罰則が科せられることとなった。

 敗戦時における長野県下の金融機関は八十二銀行と、都市銀行の出張所、農業会(のち農業協同組合)、郵便局がおもな機関であった。長野市内には、地元銀行としての八十二銀行と日本勧業銀行支店、安田銀行(のちの富士銀行)支店があり、また、歩みを始めたばかりの庶民信用組合も営業していたが、敗戦直後の預金引き出しの混乱は短期間で収束し安定をみせていた。そして、銀行貸し出しも軍需会社が多くなかったこともあり、貸し出しの資金繰りに困窮(こんきゅう)することは少なかった。しかし、この金融緊急対策においては、どの窓口も大きな混乱状態を引きおこした。当時の八十二銀行のようすはつぎのようであった。


写真30 中央通り西後町にあった八十二銀行

 銀行窓口に詰めかける人々の中には従来からの取りひきのない人も多く、新規口座開設手つづきも重なって時間を要するため、銀行内は押しよせる市民でぎっしりであった。預入期限が近づくにつれ繁忙はいっそうひどくなり、帳簿付けや現金の整理に深夜までかかった。新円交換には、隣組長がその組分をまとめて持参する場合が多かったが、引きかえ依頼の員数と塩の配給通帳に記載されている世帯員数を照合して、引きかえ依頼のあった旧円金額の分の新円証紙が交付された。新紙幣の印刷が間にあわなかったため、旧円に新円証紙を貼って新円として通用させることとなっていた。銀行の預金支払いのための新円も、当分の間回収した旧円に証紙を貼って間にあわせていた。新円証紙の貼りつけは銀行員総出で夜業して貼ったが、当時はよい糊もなかったので貼りつけに苦労した。また、各支店で回収した旧円は紙幣用の行李(こうり)に入れ、それをリュックサックに入れて背負い、列車に乗って本店に持ちこんできたが、買いだしで込みあう列車に乗っての現金輸送は、心身ともに大変な負担であった。各支店から持ちこんだ旧円の山は、金庫に入りきらず、箱に入れて宿直室に保管し、宿直員を一〇人にするなどの処置をとったという(『八十二銀行五十年史』)。


写真29 昭和21年発行の1円・5円・10円紙幣 (八十二銀行文化財団所蔵)

 新円での生活が始まった当初各商店では新円確保のため、にわかに商品が出まわり、とくに生鮮食品は豊富に店頭に陳列され目をひいたが、購買力は窮屈な新円生活から極度ににぶっているようで、なかでも露天商の売り上げは激減した。また、映画館や飲食店は、それまでの四割から五割減となった。この状況に、長野市内の魚介類小売業者は新円による購買力減少を見こして、高額な注文取り引きをこばむものも相当あらわれた(『信毎』)。

 このような金融措置は一時点にはインフレをおさえたものの、生産が依然として低迷していたことと、相かわらずの赤字財政によりインフレのテンポをはやめることとなった。

 その後、ドッジラインの実施および朝鮮動乱による特需でインフレが収束し、日本経済の安定と発展がはかられていくこととなるが、経済の進展にともない、政府は二十四年から二十九年まで、地方銀行の新設を認める方針をとった。また、支店等の店舗増設は、当初連合国総司令部の管轄下で認められなかったが、インフレ下の預金吸収を促進するため、預金取りあつかい専門の簡易店舗が認められたので、全国的には二十四年ころまでに増設がつづいた。

 戦後、長野市域に開設された金融機関は、①朝日信託銀行(のち三菱信託銀行)が敗戦後の二十年八月に出張所を、②日本貯蓄銀行(のち協和銀行)が二十年十二月に、③北陸銀行が二十三年に支店を開設した。また、二十一年には信州無尽株式会社が、本店を東京にもつ日本無尽株式会社に吸収合併され、長野市をはじめ県下に六支店を継承設置した。その後、日本無尽株式会社は二十六年に、日本相互銀行に発展した。

 いっぽう、長野市庶民信用組合は、二十三年に地区拡張が認可され、対象地域は長野市と上水内郡大豆島村、朝陽村、古里村、若槻村、芋井村、浅川村、小田切村、安茂里村、および商工業で長野市と密接な関係にある須坂町、中野町となり、名称も「長野信用組合」と改称した。また、二十五年には石堂町、桜枝町、吉田、県庁、七瀬、新町の六支所を支店とし、合わせて須坂支店を開設して七支店となった。次いで昭和二十六年、信用組合法の施行にともなって長野信用金庫と改組された。二十四年に設立をみた篠ノ井信用組合との合併が二十七年に成立し、さらに小布施町、稲荷山町、上山田町、屋代町に支店を開設し、事業区域も北信一円に広がっていった。


写真31 長野信用組合の第6回割増定期貯金(昭和26年)ほか

 二十五年以降、県下では新たな信用組合の設置が相つぎ、長野市には二十九年になって、長野県信用組合が誕生した。

 このほか、二十六年には長野県労働金庫が市内に誕生し、労働者を対象にした特殊な金融機関として発足したのをはじめ、商工組合中央金庫(二十四年出張所、二十八年支店)、国民金融公庫(二十五年支店)などが誕生している。