戦前の長野市の工業は、昭和初期までに発展してきた食品工業や木製品工業、繊維工業、印刷出版工業などの軽工業中心で、しかも県内の他地域に比べて突出した印刷工業のほかは、きわめて脆弱(ぜいじゃく)であった。しかし、製糸業の後退に対応した県の工業化政策、長野市の工場招致対策および戦時中の工場疎開などで、繊維工業や金属・機械工業、電機工業などがしだいに広まり、機械化が急速に発展しつつあった。
このようななか、敗戦を迎えた長野市の工業は、資金や物資の不足、熟練労働力の確保には悩まされたものの、戦争による被害が比較的軽微であり、また、作ったものは何でも売れる戦後の社会情勢のなかで、戦前から盛んであった食品工業や木製品・家具工業、繊維工業、印刷出版工業が復興発展の歩みを加速した。とくに、食品工業は昭和二十三年と三十年を対比すると(表18)工場数で六・七倍、生産額では一六・五倍におよぶ発展をみせた。また、印刷出版および紡織工業では生産額がともに一二倍余の成長を示し、製材木製品工業においても一〇・五倍の生産額の伸びを示した。しかし、これらの工業は紡織の一部工場と印刷出版工業を除いてはいずれも小規模な工場が多く、その大部分は従業員三〇人以下であった。
戦後、軽工業の日用消費財生産部門がいち早く復興の歩みを始めたのは、長野市が政治・観光・文化・商業都市としての性格が強く、工業も地元商業との結びつきがきわめて高く、地元消費に依存する形態が強いためであった。
軍需疎開工場を中心として発展しはじめた機械金属工業は、戦後いち早く平和産業に切りかえて再建をはかった。金属製品工業は大きく発展したものの、機械工業、電気機械器具工業などは、内陸部であることや従来からの積み重ねをもたないこともあり、二十年代の歩みは変化がはげしくきびしいものがあった。しかし、三十年以後の電気機械工業の発展の礎を築いた時期でもあった。
二十四年現在、長野市の工場分布は、金属機械・紡織・製材木製品が比較的多く、しかもどの地区にもほぼ均等に立地している。それにたいし、食品・印刷などの工場は、ややかたよった地域分布を示している(表19)。
長野市の工業のなかで大きな位置を占める食品工業は、酒、味噌、醤油、菓子、果実缶詰などの生産が中心である。とりわけ味噌製造業は、伝統的で盛んな業種であったが、戦時中においても一般家庭にあってはもとより、戦地兵士の食料品として貴重であり、とくに信州の乾燥味噌は戦地では好評を博した。軍用味噌製造は、民需ではほとんど手に入らなかった大豆や塩を比較的潤沢(じゅんたく)に入手でき、なおかつ備蓄もできた。敗戦が迫ったころ、松代大本営建設にともなって長野県内には大量の物資が移されていた。そのなかには味噌の原料もあり、大部分は敗戦と同時に農業会を通じて味噌業者に払いさげられた。戦後の物資不足のなかで、わずかではあったがうるおいであった。
長野県の味噌製造業者は早くから同業組合を結成し、品質の保持につとめたが、戦後の逼迫(ひっぱく)したなかでも品質保持に努力をおしまなかった。このことが二十年代後半には全国で圧倒的なシェアを誇る結果となっていった。
長野市の味噌・醤油業者は、明治十一年(一八七八)、長野醤油稼同盟を結成して以来幾多の組織の変遷をたどり、昭和二十四年(一九四九)長野味噌醤油工業協同組合を結成した。大正期以降の組合員数によると、その変動はきわめて少なく、安定した経営と生産をあげていた。
戦後の食品工業で目を引く業種のひとつに製粉業がある。戦後の食糧難に際しての食糧援助の大部分は小麦であったが、内外の麦の加工をおこなう製粉設備の増設が急がれた。政府は製粉にあたり、製粉団体に加工を委託する「委託加工制度」をとった。県下では、長野精麦組合をはじめとする七組合が委託を受け統制をになった。このようななかで、長野市では日穀製粉株式会社の前身である長野精麦所が、県の要請を受けて南千歳町に設立をしている。その定款によれば「本社は物価統制の影響を受ける中商工業者が企業を合同し、集団的に事業を維持し転換するためにこれを設立するものとす」とあり、県下七ヵ所から参加した一二人の社員構成で会社をスタートした。政府や県は、製粉資材の優先的配給や電力制限の解除を講じるなどてこ入れをおこなった結果、二十六年には日産三六トンの工場に成長した。当時、小麦の奨励品種の「伊賀筑後オレゴン」種が、高品質の強力小麦として全国的に有名になり、しかも、長野県が栽培の最適地で、長野盆地や上水内山間部で盛んに栽培されたことも、製粉業の発展に欠かすことができない要因であった。
印刷出版工業は、戦前の長野市工業の特色的産業であったが、戦時中の企業整理により、信濃書籍印刷株式会社、大日本法令印刷株式会社など八事業所が残留したのみであった。また、新聞各紙も、敗戦時には全県で信濃毎日新聞一紙となった。長野市に疎開してきた印刷出版工場は岩波書店、信友社、さらえ書房などであった。また、日本出版文化協会が戦時中から戦後しばらく長野市へ疎開していた。これが戦後の長野市印刷業の発展に少ながらぬ影響力をおよぼした。すなわち、関東大震災のときと同様に、戦火で多大な被害をこうむって印刷機械等の設備や技術者が絶対的に不足していた首都圏から、工場も設備も技術も比較的充実していた長野県、とりわけ長野市への発注が多かった。注文の六割から七割が東京からのものでしめていたという。
言論出版の統制が解かれると、長野市の残留出版社や疎開出版業者は早速さまざまな出版活動を開始した。言論の自由を奪われていた時期を終えて、国民全体が出版物を欲していた。需要の高さを背景にして、薄い仙花紙に刷られた安っぽい雑誌でも飛ぶように売れた。連合国総司令部の検閲を受けなければならなかったものの、その自由さは戦時中のきびしい検閲とは比べようがなかった。しかし、用紙は不足しており高いやみ紙を購入するほか、容易に用紙を調達する方法はなかった。ちなみに、当時ざら紙一連の通常価格が一〇五〇円であったものが、やみ値になると三倍をこす三五〇〇円以上にはねあがったという。加えて戦前から酷使していた機械は消耗がはげしく、使い物にならないものも多かった。また、労働力も戦後しばらくは不足がつづき、用紙不足とともに印刷業界の三大悩みになっていた。しかし、戦後の需要にともなって二十年代には新たに創業した会社が多く、その後の長野市印刷出版工業の発展に寄与するところが大きかった。たとえば、第一印刷株式会社、西沢印刷株式会社、三和印刷株式会社、信毎書籍印刷などがそれである。
新聞については、全県一紙時代から引きつづいて信濃毎日新聞がその地位を確固とし、戦後間もなく三〇万部をこす発行数であった。長野市域には他の日刊紙は生まれることはなかったが、週刊紙および旬刊紙はいくつか発刊された。信越時報、信濃新聞、北信民報などがそれであった。
機械金属工業のうち、とくに電気機械工業は、戦時中の疎開工場がその発端である。県や長野市の工場誘致により、栗田に工場を開設した日本無線長野工場は、その製品がすべて軍用品であったため、敗戦後は生産の見通しがたたず、閉鎖へ向けて整理がおこなわれた。社員の中には会社の厚生施設を利用して旅館や料理屋を始める者もいたという。社内の診療施設や医師等によって日本無線長野病院(のち中央病院)を開設し診療を開始したのもこのときである。再生を目指した会社は、技術と技術者の温存のためラジオの修理から手がけたが、たまたま連合国総司令部からの要請によるラジオの生産を手がけることとなった。しかし、資材の調達にも困難をきわめ、昭和二十四年には長野工場の資産をもとに長野日本無線株式会社が設立され、会社整理のため緑町工場が長野貯金局に売却された。その後、朝鮮戦争勃発による特需と国内の近代化の波は通信機等を生産する長野日本無線にとっては追い風となり発展の契機となっていった。
富士通石堂工場を疎開先として借りうけた富士電機研究部は、航空機用真空管やランプなどの製造をおこなっていたが、軍用品であったことから敗戦後はまったく需要がなくなり、生産が打ちきられた。ついで、富士電機縮小にともなって長野研究部の撤退が決定されたが、従来からの設備と技術を生かすべく、奥田孝治、光延丈喜夫らが独立し、合資会社長野家庭電器再生所(のち新光電機工業株式会社)が設立された。同社は家庭用電球の再生を中心に業務がおこなわれた。真空管製造の技術を生かし、切れた電球を分解し、フィラメントをつなぎつけて元に戻すリサイクルであった。これはのちに通信用ランプの製造に発展し三十年代にいたって半導体生産に連なっていった。
軍需産業であった電気機械工業は、敗戦とともに生産の見通しと販路を絶たれる状況を迎えたが、朝鮮戦争の特需などにより活路を見いだし、以後の発展の基礎を築いていった。