交通機関の混乱と再建

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昭和二十年(一九四五)十一月二十日から国鉄の旅行統制(旅行証明書・前日申告制・切符割り当て制など)が解除された。しかし、戦後の鉄道輸送は蒸気機関車の燃料である石炭の不足、資材不足、車両不足や老朽化、線路の補修などで信越線・篠ノ井線とも運休列車が続出して、貨物や乗客の輸送力に大きく影響した。それに占領軍の輸送が加わり、列車がダイヤどおり運行できないこともしばしばであった。列車数がへらされると、通勤通学者・食糧不足による買い出し人・復員軍人・引き揚げ帰国者・疎開者などで、どの列車も超満員であった。デッキはもちろん石炭車の上にまで乗る者、ガラスのこわれた窓から乗りおりもおこなわれるという混乱ぶりであった。切符を買うにも、長い行列をつくって待つことが普通であった。朝夕の通勤通学時には、貨物列車に客車を二両ほど連結した混合列車といわれるローカル列車を走らせることもおこなわれた。そのうえ、二十年十月九日の水害で長野・川中島間犀川橋梁に損傷を受け、翌年十一月二十七日の復旧終了まで一年余にわたり単線運転を余儀なくされた。


写真34 戦後の列車は乗客の乗りおりで、どの列車も混雑した

 戦後の混乱のなかで鉄道敷地内での暴力犯罪や輸送荷物の盗難などの事故が続発したので、二十一年三月に社内秩序維持のため旅客巡察員と乗客係、輸送貨物の安全のため荷物事故防止巡察員と警備係を設けた。二十四年からは改組して、長野鉄道公安室となって鉄道公安官は警察権の一部も付与された。

 インフレの進行とともに運賃の値あげもしばしばおこなわれ、二十二年の場合は三月に値あげしたのに、その後の急速な物価上昇・人件費増大・新物価体系の設定にともない、七月にまた値あげを実施するありさまであった。

 二十三年からはしだいに回復に向かったが、冬季には石炭の入荷がいちじるしく減って、十二月十七日から翌年一月十四日までの年末年始の折に、長野管理部管内の信越線・中央線の旅客・貨物列車とも大幅に削減され、人々や物資の輸送に影響をあたえた。さらに、石炭の質も低下していたので、篠ノ井線・中央線の急坂を上れなかったり冠着トンネル(二六五六メートル)内で立ち往生する列車があり、機関手や乗客が煤煙(ばいえん)に苦しむことも多かった。そのころ機関士であった長野市の町田正二は、四十五年に「四〇メートル走って一メートルのぼる冠着隧道の中は、いちばん乗務員泣かせでしたね。中はしずくが落ちていて車輪が空転しやすいんです。一度窒息しそうになったことがあったですねえ。雨が降っていた夜一〇時ころ篠ノ井駅をでて、隧道(ずいどう)の中は熱気と煙、汽車は時速一五キロメートルくらいで今にも止まりそうだ。石炭が悪かったからね。もう少しだ、もう少しだと助手を励ましながらやっと隧道を出ると、顔なんかやけどのようになっていた。」(『信毎』)と語っている。

 『信毎年鑑』によると国鉄は収入増をはかるため、二十四年以降二十七年までに長野平和博覧会特別列車、プロ野球観戦の野球列車、春のワラビ列車、夏の谷浜列車、秋のりんご列車・紅葉列車、冬のスキースケート列車、成田山参詣の成田房総巡回列車、週末の行楽列車などのサービス列車の運行もおこなっている。

 昭和二十五年六月二十五日に朝鮮戦争が勃発したことにより特需景気が生まれ、貨物輸送が国鉄の重点施策となり物資輸送は活気を呈したが、貨車不足で需要に応じきれない状態であった。同年八月一日に新潟鉄道局長野管理部が廃止され、長野鉄道管理局が設置されて、県内の大部分がこの管内にはいった。長野駅では同年十月に東口が設けられて跨線橋(こせんきょう)でつながり、駅は西口(善光寺口)と二つの乗降口をもつことになり便利になった。この乗降口の設置には、市の東部への発展への願いをもつ長野市が費用の大部分を負担した。戦時中に供出されて台座だけになっていた如是姫像は、二十三年十月に佐々木大樹の原作による新しい造形で六年ぶりに復活した。二十五年四月には駅前に「歓迎」の文字入りの歓迎塔が設置され、七月には如是姫像の噴水も復活した。


写真35 敗戦間もない長野駅前
後方建物は国鉄長野管理部。如是姫像は台座のみ(昭和23年再建)

 長野電鉄は戦中戦後の電力節約のため、運行を制限され間びき運転がおこなわれた。戦中に廃止されていた緑町停留所は周辺地区の復活期成同盟の運動によって復活し、二十六年には河東線に大室駅が設置された。長野電鉄も物資不足・インフレ・従業員の賃上げなどで苦境にあり、二十四年までに五回の運賃値あげがおこなわれ、二十四年五月のそれは、二十年の四〇倍にもなっていた。二十四年九月七日に志賀高原を中心とする上信越高原が国立公園になると、観光開発に力が入れられ、二十六年十一月長野・志賀高原間直通バス、二十七年十月一日からは長野・湯田中間に二往復の特急列車の運行を始めた(『長野電鉄80年のあゆみ』)。

 バスの運行は、ガソリン不足や木炭車などの修理資材不足で戦時中に運転不能車両が多くなり、運転路線や運転回数の縮小がおこなわれていた。戦後もしばらくは同じような状況で、道路・橋梁などの整備も不十分で、人々の足の悩みは多かった。県内全体における昭和二十六年の県陸運の燃料別自動車統計をみると、普通車(乗合自動車・貨物自動車・乗用車)二四二〇両のうち、ガソリン六五五、軽油一七六、木炭五六四、薪九五、圧縮ガス四一、液化ガス三二、松根油一となっている(『のびゆく長野市』)。

 川中島自動車会社の場合、乗合自動車は昭和十五年一一〇台あっだのが二十一年には四三台に減少し、二十五年になっても九六台で、長野電鉄会社の場合は昭和十五年一一〇台あっだのが二十三年には三四台に減少し、二十七年になっても八一台で、両社ともまだ戦前の状態までにもどっていなかった。しかし、生産増強上で必要度の高い路線として、二十一年以降長野・上山田間の六往復を一〇往復に、長野・牟礼間を六往復、休止していた長野・大町間、権堂・豊野間、長野・綿内間を復活させ、二十七年には長野・須坂間を三〇分~一時間間隔にし、市内巡回乗合の復活などがすすめられた。さらに、二十六年六月から四社相互乗り入れで長野・飯田間急行バス(みすず急行と愛称)、十二月から長野・上田間急行バスの運行を開始した。長野市内の自動車保有数は、昭和二十六年二月十七日調べによると表20のようである。


表20 長野市内の自動車保有数 (昭和26年2月17日調)

 道路でしばしばネックとなったのは、千曲川・犀川にかかる木製の橋であった。欄干(らんかん)もない板橋は重量制限によって、バスは乗客をいったん下車させて通行するということもおこなわれた。長野市と綿内方面を結ぶ大事な幹線の落合橋の場合、二十二年のリビー台風で一部橋脚が流失し、二十七年七月の集中豪雨の際にも中央部分が流され、修復するまでそのつど大回りして他の橋を渡ったり渡し船を利用するなど不便が多く、鉄筋コンクリートの永久橋を国に陳情し、建設省からも実地基本調査に訪れている。


写真36 乗客をおろして歩かせ、その後につづいて渡る関崎橋上のバス

 長野市内の道路整備は少しずつすすめられた。二十三年から二十五年にわたる昭和通り(中央通り-緑町)工事は、生産都市再建整備事業と銘うっての大工事で、家屋を移転して従来の一〇メートル幅を二三メートル幅にしたものである。緑町の東西道路二五〇メートル、平林街道から吉田に抜ける南北線二〇〇〇メートルの拡張工事も計画された。

 昭和二十四年十一月一日から交通法規がかわり、「対面交通」が実施されるようになった。長い間左側通行が習慣であったので混乱がおこり、市や市警察署では、市報・ちらしや標語「人は右車は左の対面交通」「注意一秒怪我一生」などをかかげて徹底につとめた。春と秋には交通安全週間や旬間を設けて、交通安全と交通規則の遵守(じゅんしゅ)への働きかけがなされた。二十七年十二月末の市内自動車数は一三六五台、二十七年中の市内の交通事故は五八件、死者二人・負傷者五五人であった(『長野市報』)。