郵便と電信・電話の整備

84 ~ 88

敗戦直後の郵政事業の課題は、いかにして郵便・電信・電話のサービスを戦前の水準に回復させるかにあった。昭和二十年(一九四五)八月二十二日に逓信(ていしん)復興本部を設立し、経済不安と施設設備老朽化、物資不足や労働事情の悪化のなかで復興をめざした。同年九月には戦時体制のもとで定められていた諸統制は廃止され、郵便物の検閲や受付制限、電信電話の取扱制限などがなくなった。

 翌二十一年十月一日に、東京逓信局信越管理部の電話課は、長野電話局に昇格した。さらに、二十二年五月一日に信越管理部は長野逓信局と改称され、長野・新潟両県下の郵便・電信・電話を管理した。それを記念して同年十月十五日から五日間、長野逓信局は長野市民会館で「われらの逓信文化展」を開催した。郵便・電話その他通信に関する実物や図解、各国の切手などを年代順に陳列し、逓信相談所・郵便局臨時出張所も開設して市民にサービスした(『信毎』)。長野逓信局は二十三年四月、市内栗田の日本無線株式会社の移転したあとを買いうけ、ここに長野逓信局と長野逓信講習所を移転した。

 二十四年二月、長野逓信局電信課は長野電報局として昇格した。同年六月には郵政事業復興五ヵ年計画がたてられ、郵政省と電気通信省が分離した。これにより、長野逓信局は長野郵政局となった。同時に簡易郵便局法が制定され、各地に簡易郵便局(町村などの地方公共団体、農協・漁協・生協などが郵政大臣の委託を受けて郵便窓口事務をおこなう施設)も創設された。郵便局は、郵便週間・親切週間・郵便無事故週間などを設けて、窓口・外務のサービスを強化し、郵便事故防止・職員の意識改革や住民の信頼回復にっとめた。この年から、お年玉つき年賀はがきの発売が始まり、人気を集めて以後、毎年発売されることとなった。戦後の施策や努力にもかかわらず、毎年赤字がつづき、表21にみるように戦後数年は毎年郵便料金の値あげがおこなわれた。黒字に転換したのは、二十七年からであった。


表21 戦中から戦後の郵便料金変遷


写真38 昭和27年(1952)のお年玉つき年賀はがきの宣伝ちらし

 長野郵政局は、二十五年二月の郵政省設置法によって県内諸局の統治局となり、特定郵便局・普通郵便局・鉄道郵便局・簡易郵便局の連絡統治事務を扱うことになった。特定郵便局はもと三等郵便局で、明治初年に地方の有力者の協力を得て設置した郵便取扱所に始まり、昭和二十二年まで任用規定に「局長は相当の資産を有する者」があったので、局長は地方の有力者で終身同一の官にとどまる者が多かった。二十六年の長野郵政局管内の郵便局数は、特定郵便局三八二局・普通郵便局一六局・鉄道郵便局一局・簡易郵便局二二局であった。長野市内の特定郵便局は一五局で、桜枝町・旭町・南県町・県庁・長野駅前・中御所・若里・七瀬・緑町・鶴賀・淀ケ橋・相ノ木・吉田・箱清水・郵政局分室に設けられていた(『のびゆく長野市』)。


写真37 長野中央郵便局舎

 二十六年には郵便ポスト(郵便差出箱)の形式を改正し、従来の円筒式のほかに柱形ポスト・角型ポストが登場した。色は明治四十一年の制定どおり赤を基調としたが、大都市では、速達専用の青ポストが設置された。この年から長野をはじめ県内八郵便局が、郵便日曜日休配を試行した。山間地への新聞は郵送であるため、日曜日付の新聞は翌日回しとなっだので不満の声もあがった。県内全域にわたっての郵便日曜日休配の実施は、四十三年になってからである。郵便の集配には自転車が主流であったが、二十五年ころからスクーターが登場し、増備三ヵ年計画で使用局をふやしていった(『続逓信事業史』第三巻)。

 電話局は戦後インフレのなかで赤字つづきとなり、表22のように二十一年から二十六年までに四回の値あげをおこなったが、物価高と人件費の膨張に追いつかなかった。二十二年九月に長野電話局は、T型自動交換機を設置して自動局となった。この自動交換機は、東京都麹町の国防電話局に用いていた機械を転用したもので、のち、三十四年A型に取りかえられるまで長野で活躍した。


表22 戦後の電話・電報料金

 電話機を入れたいという申しこみは多かったが、資材不足・資金不足でそれに応じきれず、「引きにくい電話かかりにくい電話」という不満がつづいた。長野電話局管内の電話加入者数は、二十年十二月二〇九六人であったのが、五年経った二十五年十二月には三六三〇人であった。加入をふやすため、二十七年には電話共同加入制度もとりいれた。共同加入によると、単独加入二万四〇〇〇円にたいし一万四〇〇〇円で、三〇〇メートル以内でもう一台併設可能となった。長野電話局内では、約六〇組一二〇の共同加入があった。しかし、共同加入では同じ組の一人が電話を使用しているときは、ほかの一人はかけられないという不便があった。

 長距離電話用の工事は二十二年から始められ、二十四年三月には長野電話中継所が設けられ、長野東京間一一回線は二五回線に増加して、遠距離への電話がスピードアップされた。二十五年には長野大町間の一回線が二回線に。長野松本間の九回線が一三回線に増加し、長野・岩村田間は直通となった。二十六年十一月から電話料値あげにともない、親子電話・簡易公衆電話・委託公衆電話(赤電話)の設置や時報サービスなどにつとめた。


写真39 昭和23年から用いられた磁石式卓上電話機

 公衆電話は粗悪な硬貨によるトラブルが多かったので、二十二年に紙幣式公衆電話機を採用し二十八年まで用いた。設置当時は料金の回収率が八九パーセントときわめてよかったので、アメリカの新聞に「敗戦したといえども日本人の道徳性は高いものがある」と報道されたが、しだいに回収率は低下した(『信越の電信電話史』)。

 二十四年長野郵政局とともに誕生した信越電気通信局が、信越の電信電話を管理した。当初は郵政局と同居していたが、南石堂町の資材置場であったところに二十六年二月、二階建て庁舎を新築して移転した。ここは長野駅に近く、たいへん便利であると関係者や利用者から歓迎された。電報は、敗戦当時平均八時間かかったものが、しだいに改善して二十五年には平均一時間半ほどに短縮され、電文のあやまりも少なくなった。二十七年八月一日、電気通信省は発展的に解消して「日本電信電話公社」が誕生し、八三年つづいた官業から公共企業体へ移行した。