インフレ・食糧危機と住民の生活

89 ~ 95

敗戦後の日本経済は、どん底に落ちこんでいた。十五年戦争の間に国民の生産基盤は壊滅的な打撃を受け、半年たっても、生産はまだ戦前水準の二~三割でしかなかった。いっぽうで、海外からの復員・引き揚げは戦後の二年間に六〇〇余万人にもおよんだため、食糧・衣料ほか日常物資の不足に拍車がかかった。加えて、激化していったインフレーションの波は、国民経済を混乱に落としいれ、市民生活を極度に圧迫した。昭和二十年(一九四五)十一月一日には、餓死者続出の状況下で、東京の日比谷公園では餓死対策国民大会が開催されるほどであった(『信毎』)。

 長野市の市会協議会に戦後対策委員会が設置されたのは、二十年十月二日であった。この日の協議会には観光・食糧・失業・市財政の四委員会を設けて「戦後の市がすすむべき方策を生みだそうという意見」が提案されたが、結局入れられないで戦後対策委員会が設置されたという(『信毎』)。このころ、主食の配給量は、成人一人あたり一日二合一勺(〇・三八リットル)であった。民衆は、食糧問題を筆頭にさまざまな首相あての要求を殺到させた。長野市会協議会では松橋市議から、千石農相がのべた二合一勺の配給量を増して二合三勺とすることは到底見こみがないとの発言を取りあげて反論するとともに、「主食配給量を、一人一日二合五勺に引きあげるよう陳情する」提案がなされ、決定している。主食の増配を何とかしてほしいという請願は長野市民とりわけ、台所をあずかる女性の切実な願いであった。食糧不足のなかやみ値が横行する状況をしのいで、主食の二・五合増配が実施されたのは、およそ一年後の二十一年十一月一日のことであった。

 二十年十月十四日付『信毎』は「何んと米一升が五十円、悪化する国民の闇生活」の記事をかかげた。そのなかで、「米のやみ値が四、五月ころには、都会地では消費価格の五〇倍平均のやみ値が、終戦後の九月には八〇倍九〇倍、現在では約一〇〇倍の一升五〇円という相場になっている」と報じた。二十年十二月十五日、長野市での青空市場の一斉取り締りでは、一円で仕入れた石鹸が一〇円、百匁三、四円の干いわしが一五円から二〇円など極端な暴利を得ている露店商がいることがわかった(『信毎』)。戦後インフレーションは二十一年~二十二年にかけてなおもつづき(表23)、長野市のやみ物価は高騰をつづけた。諸物資のなかから白米・大麦・石鹸・綿布についてみると、それらのやみ価格はいずれも上昇しつづけ、一年後の二十二年八月には一・七~四・二倍になっている。この間、やみ市場の取り締りはたびたび実施されたがおさまらずにやみ値が横行していた。とはいえ、生活物資なら何でも間にあう露店(青空市場の愛称で呼ばれた)は、その後も増加しつづけ、市民生活とは切っても切りはなせない存在となってきていた。その結果、長野署管内の露店商は、二十一年四月末には二五〇にも達した。


表23 長野市のやみ物価 (長野県商工課調)(単位:円)


写真40 敗戦後インフレ下の一升びんでの棒つき精米 (昭和館所蔵)

 いっぽう、労働者の収入は物価高騰(こうとう)に追いつけないで、賃金は相対的に低下し、生活を苦しくしていった。二十二年六月~二十四年三月までの長野労働基準局管内の賃金と生計費の動向をみると、一年一〇ヵ月の間に、賃金は月に一八七七円から六五二一円へと三・四倍に上昇してはいる。しかし、生計費もそれにつれて増大し、生計費にたいする赤字率は一〇パーセントから二〇パーセント台を示している月がほとんどで、賃金と生計費との追いかけっこがつづいた(表24)。勤労者世帯が赤字を埋めるためには、賃金外収入にたよらねばならなかった。


表24 平均賃金と生計費の動き(長野労働基準局調)

 戦後インフレが日ごとに激化する情勢のなかで、政府はインフレをおさえるために総合対策を断行した。その中心策の一つが二十一年二月にだされた金融緊急措置令であり、食糧緊急措置令であった。金融緊急措置令は二月十七日現在における金融機関の預金を封鎖し、その後の現金支払いは、毎月の生活資金・定期的給与・事業資金に限定するものであった。当初、新券引きかえは一人あたり一〇〇円とされた。これらの措置により、日銀券は二月十八日の六一八億円から三月十二日には一五二億円と七五パーセントも収縮した(『八十二銀行史』)。しかし、生産が依然として低迷しており、インフレの根源である赤字財政がそのまま放置されていたため、その後通貨は再び膨張に転じ、物価の上昇はかえってそのテンポを早めるにいたった。このインフレ経済は、二十四年三月ドッジ公使によるインフレ収束策が発表され、実施されるまでつづいた。

 二十年十月八日に『信毎』は「長蛇の列がつづく甘藷の買い出し部隊」の記事を、長野市郊外川合新田の写真を載せて報道した。豪雨により、泥水につかった甘藷(まずくて食用に不適)が大っぴらに買える第一日目の七日は、朝早くから犀川・千曲川沿岸一帯の村々へ、おびただしい買い出し部隊がどっと押しかけた。なかには大八車やリヤカーを持ちだした人もいて、あとからあとから蟻(あり)の行列さながらに買い出し部隊がつづいたと伝えている。十三日の報道によれば、連日の降雨で、十二日午前四時ころ堤防が決壊して、犀川が氾濫(はんらん)し青木島村・真島村の両村では四二〇戸が濁流にのまれた。甘藷畑など三〇〇町歩が一瞬にして全滅した。長野市では、北信地方の被害藷(いも)を市民一人あたり二貫あて(一貫一円で)配給することにした。米など食糧不足を補うためには、水つき藷でさえも食用にしなければならなかった。また、十一月八日には「おからへ布(し)く長蛇の列」の記事が大写真入りで載った。長野市で自由販売されるおからは一人一〇銭(約四〇〇匁)だが、午前八時売りだしだというのに、真っ暗な四時には販売所の店先に容器をもった婦人や子どもで、長蛇の列をなしていたというのである。水つき藷やおからの買い出し記事が大きくクローズアップされるところに終戦直後の食糧難の深刻さがみてとれる。

 翌二十一年五月十二日の長野署の食糧管理法違反取り締りは総動員でおこない、管内各駅、主要道路などで買い出し食物などの取り締りを実施した。橋のたもとに張りこむなどして約三〇〇件を摘発した。リュックの中身は白米・大豆・小麦粉などが多く、一升から最高三斗くらいまでで、違反者の内一升五合は許容しそれ以上の食糧は摘発対象とした。

 敗戦後の食糧難のなかで、長野市は食糧補給対策を講じなければならなかった。可能な土地の耕地化と食糧の作つけを実施するとともに、生産者である農民には主食米穀の供出を働きかけた。GHQ指令による救援食糧がとどいたのは、食糧危機が叫ばれた二十一年七月のことである。

 長野市が土地の耕地化をはかった事例のひとつに長野飛行場がある。長野市と大豆島村がいっしょになって長野飛行場土地耕作組合をつくり、二十年十一月十六日には耕地づくりに着手した。十九日からは長野工業学校生徒が勤労奉仕により、春の四月までに五万坪(一六・五万平方メートル)を耕地化し藷類を栽培する予定をたてた。また、じきに使える一〇余万坪には春野菜をつくって市民の台所へそっくり供出するとのことであった(『信毎』)。目の前に広がる飛行場の農地化による食糧の確保は、市民には大いに歓迎された。なかなか思うにまかせなかったのは食糧生産者である農家の供出完遂であった。


写真41 昭和24年度の家庭用塩の購入券

 『信毎』の十月二十三日には「主食甘藷の横流し、県で近く取り締りを強化」の記事が報じられた。水害甘藷の急速な処理をねらった自由販売が、旺盛な買いだし部隊を生みだして供出割当甘藷がでてこないというのである。十二月十八日には「長野(市)で供米八〇パーセント」の記事が載った。市農業会では残りのあと二〇パーセントの玄米供出は年内に完遂の見こみ十分としている。記事では農村側が「市内消費者の食糧事情の急迫ぶりを目の前に見ているだけに深い理解をもった結果」と分析し、評価している。しかし、二十一年一月の記事では「残っているとは何事だ、上水内朝陽村倉庫に麦が百余俵」の見だしがみられた。十二月に大小麦が村の倉庫で発見され、供出率七五パーセントにしか達していない朝陽村を、長水経済課が調査に乗りだした。同年六月には市農家実行組合会が自発的に救米供出を決定した。一〇ヵ月以上の保有米をもつ農家からできるだけの救米を仰いで市長が保管し、土壇場(どたんば)で本当に困っている人におくろうとする運動であった。

 しかしながら、供出をせずにやみ米として売った方がもうかることから、町村ごとに供出割りあてをしてもスムーズに供出完遂というわけにはいかなかった。村長への供出催促を繰り加えしたり、供出割りあての組織をかえたり、また、供出完遂者への見かえり報奨をだしたり、さらには、未供出者に強権をちらつかせたりしながらの食糧確保戦術がつづいたのである。二十一年七月十日小田切村では県の指示によって食糧調整委員会という組織を発足させ、米穀等の供出割りあてや配給問題に対処することになった。そうこうしているところへ、GHQ指令による放出食糧九・四日分か長野市に配給され、息をついた。二十一年七月七日のことであった。しかし、この七月には、県職員に飢餓突破休日として週に一日の休日があたえられるとともに、翌八月には飢餓突破県民協議会が組織され始動するほどに切迫した情勢がつづいた。

 このころ、市町村の住民・消費者へは、食糧以外にも衣類ほか生活物資の割りあて・配給がおこなわれ、欠乏物資の補充がおこなわれた。松代町の場合、昭和二十一年一月十九日~七月三日までの衣料の割りあて・配給は、四十数品目、八千数百点におよんだ。戦災引揚者・復員者をはじめとして、水害農家・軍人遺族のほか一般人をも対象に、毛布・防寒靴下・襦袢(じゅばん)・患者冬衣・天幕・テーブル掛けなどが割りあてられ配給された。これらの物品は、特殊物件と呼ばれ、GHQによる返還物資(軍払い下げ物資)として市町村に配分された。物資の不正配分をなくすために、松代町では、埴科地方事務所長の指示によって、七月三十日には特殊物件ほか割りあて・配給についての監査が実施された。