復員・引き揚げと疎開者の動き

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敗戦後の日本では、人口の社会的大移動がおこった。全国どこの市町村でも引湯者(海外から帰国した人)、復員者(兵員の召集を解除された人)が急増するとともに、疎開者が元の居住地へもどり、外国人労働者が故国に帰還したからである。

 昭和二十年(一九四五)八月十五日現在の陸海軍は、内地(国内)に三七〇万人、外地(国外)に三五〇万人、計七二〇万人の規模であった。この大部隊が召集を解除されて、出身地への移動・帰還をすることになった。また、外地には三五〇万軍人軍属以外に一般日本人が三一〇万人も居住しており、これら六六〇万人の帰国・引き揚げ問題が復員問題とともにいっきょに国の政治課題として浮上してきた。同年九月~十月にかけて、故郷に急ぐ復員軍人の移動により国内交通は大混乱におちいったが、内地部隊の復員は十月半ばには大部分が完了した。これ以降、国の方針・対策のもとに、県や市町村は増大する復員・引揚者の援護問題への対応におわれる日々がつづいた。

 長野県内では「終戦後二十一年八月までには一四万九二六四人、さらに二十二年八月までには一八万八〇六一人と県総人口の一割近い海外復員引き揚げによる人口増加があり」、県下における失業問題も深刻な様相を呈した(『信毎年鑑』)。

 昭和二十三年七月の復員・引揚者数は、長野市域にかかわる一市四郡では、一般引揚者世帯数五六五二、人数一万四七五五人、復員者世帯数二万二八一九、人数二万五三八四人となっており、戦後の三年間に四万人をこえる多数の人口増となっていた(表25)。


表25 復員・引揚者数 (県厚生課調)(昭和23年)

 昭和二十二年六月調査の寺尾村の復員・引揚者(表26)は、復員者世帯数一六八、人数二一三人、一般引揚者世帯数四六、人数一四〇人、計二一四世帯、三五三人であった。引き揚げ地区別にみると、中国一五八人・満州四六人・台湾三四人・朝鮮三〇人ほかで、ソ連地区の引揚者数はシベリア九人、樺太七人といまだ少ない状況にあった。しかし、寺尾村では敗戦後二年ほどの間に三五三人もの人口が急増していたのである。


表26 寺尾村の復員・引揚者 (昭和22年6月)


写真42 外務省による大陸・南方からの未引揚者の安否消息調査

 急増する引き揚げ・復員者対策をすすめるために、長水地方事務所は昭和二十一年二月二日付けの「定着地に於ける海外引揚者調査」を町村あてに通牒し、月ごとの動向をつかむための基礎調査を継続していた。

 昭和二十一年五月、同胞援護会長野県支部が設立され、郡市にも分会が設立された。六月四日付けの『信毎』では「怠慢、県が知らぬ顔、何と連絡の電報を握りつぶす、長野市民の情で一夜」の見だしが登場した。この記事の内容は、二日の午後四時に長野駅頭に帰郷した満州開拓団員一一八人を迎える県の援護関係者がいなかった(連絡電報を握りつぶした)ため、野宿寸前のところを長野市同胞援護会員が通りかかり、無料宿泊所「みすず」へ案内し、米八升を贈ったというものであった。四日後の同紙建設標には「県のあんまりな冷たい態度に私は泣きました」(女性・元桔梗ケ原拓務訓練所員)、満州開拓に送りだしたころの熱情はどこへいったのかなど、県の対応のひどさを批判する五通の投書が掲載された。

 同年七月四日には県から市町村長あてに「同胞援護強調運動実施について」の通牒がだされた。小田切村では、直ちに七月七日付け「七月常会事項」で取りあげ、十日から三十日までの運動実施期間中に、①一戸五〇銭以上の寄付、②各家庭よりなるべく食糧一合以上ならびに生活必需物資一品あて寄付、を依頼するなど村民に引揚者・復員者への援護強調を呼びかけた。不十分な県の援護策を補強し、県民の批判にこたえるために、自治体をとおして実施させた一つの援護策であった。さらに、七月末から八月にかけては、海外引揚者住所調査や帰農者農機具需要調査ほかを実施している。

 昭和二十二年(一九四七)四月、県職業課の失業状況調査によれば、海外引揚者・復員関係者が県内失業者の半数をこえており、引き揚げ・復員者の就業問題は緊急の課題となっていた。二十一年度の「上高田区長日誌」によれば、四月十九日には復員軍人就職就業調査が実施され、四三人の就業職種(工場一五・農業一〇・鉄道三・郵便三ほか)を記録しているが、家居二人を除く四一人は復職等により就職が決まっていた。これに比べて、一般引揚者の就業は、新規の職場開拓をしなければならないケースが多いため、より大きな困難がともなった。


写真43 在外邦人の引揚者・軍人軍属の復員事務書類

 県は引揚者ほか生活困窮者を対象に、二十一年から二十二年にかけて緊急の援護施策を実施した。二十一年七月には外地引揚者にたいして炊事用具・雨具等応急生活家財の配給を議決した。翌八月には生業資金貸し付け一世帯三〇〇〇円を二四五六世帯分に実施し、翌二十二年にも一二八六世帯に同額の貸し付けを実施している(『長野県政史』)。二十三年三月の引揚者への県の生業資金貸し付けは二七八八件、二五四一万余円に達した(表27)。このほかに未開拓地の入植者への援助や住宅対策(既存建物の改造、新築助成等)もおこなった。


表27 県生業資金貸付状況一覧 (県厚生課調)(昭和23年)

 また、県は食糧や衣服の特別配給を実施し、戦後の物資不足に対処しなければならなかった。松代町の被服配給の場合をみると、昭和二十一年一月十九日~七月三日までに綿靴下・靴下・テーブル掛・男児ズボン・毛布・天幕(配給量の多い順に)ほか、全五四品目八三五八点を二〇常会に配分し、急場をしのいでいた。五四品目の配給物品は、前記のほかには、作業手袋・防寒靴下・割烹着(かっぽうぎ)・患者冬着・毛短靴下・夏袴下(こした)・夏襦袢(じゅばん)・褌(ふんどし)・手袋などで、いずれも最低の生活必需品の割りあて配給であった。このようにどの自治体でも失業者の多い引き揚げ・復員者や戦災者等を対象に進駐軍払い下げ物資などの特別配給が実施され、援護活動が展開されたのである。

 そのころ、長野勤労署窓口は求職者でごったがえす状況で、就業が困難であった。とりわけ、女性の就労は困難で『信毎』に「ふえる子どもづれ未亡人 勤労署の窓口は冷たい条件付き」の記事も出された。そのようななかで、共和村では、引き揚げ・戦災者ら二五〇人余が、日用雑貨の販売店「村のデパート」を青年団員らの斡旋で開業したという。就業先を開拓するひとつの試みであった。また、県では復員・引揚者の就職地として開拓帰農を奨励し、補助金をあたえていた。二十一年十一月三十日、長野勤労署の開拓帰農状況調べによれば、九開拓地(芋井村上屋一〇〇町歩ほか)の入植世帯一五四の内訳実態は、軍人軍属五八・海外引揚者三九・戦災疎開者一八ほか三九であった。

 長野市近辺へ疎開した人々の動向を小田切村の状況からみると表28にみられるように、小田切村で疎開者が最多のときは、昭和二十年九月三十日調査の段階で、一般疎開者世帯四五、戦災による疎開者世帯三〇、計七五世帯で、疎開者総人数は二八八人であった。それが七ヵ月後の二十一年四月三十日調査によれば、六二世帯一七二人となって、一三世帯一一六人が村を離れ、その後も疎開者の離村がつづいた。昭和二十年十月十日現在、松代町への疎開者は東京都一〇九六人ほか一一府県から一三六一人を迎えていたが、これも同様にその大半は旧居住地(故郷)へ帰っていくこととなった。


表28 小田切村の疎開者数