労働組合の結成と労働運動

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敗戦による虚脱状態から抜けだし、自由で民主的な社会の実現をめざした労働組織をつくろうとする動きは、いち早く長野市において始まった。

 昭和二十年(一九四五)九月初旬、農民運動家町田惣一郎(須坂市)、進歩的歌人宮崎茂(新諏訪町)、県農業会職員小林喜治(上水内郡栄村・現中条村)の三人が長野市内に集まって民主主義理論に基づく大衆文化運動を起こすことを決め、手分けをして会員の募集をはじめた。会員は長野市を中心に知識人、文化人はじめ進歩的な考えをもつ人々が広く各界から集まって、同年十一月十四日、市内県町において長野自由懇話会が結成された。


写真44 北埴民主同盟の結社届け書

 会員には、小出ふみ子(歌人)、坂本令太郎(のち信濃毎日新聞社編集長)、林虎雄(のち県知事)、井出一太郎(のち衆議院議員)、田中重弥(のち県経営者協会長)、松橋久左衛門(のち長野市長)、溝上正男(のち県会議員)、北沢貞一(のち県会議員)、など九二人が名を連ねた。同会では、中央・地方の学者や研究者を招き、政治・経済・労働・思想などの分野にわたって理論と実践の啓発や普及につとめ、これがやがて県下の労働組合はじめ農民組合の結成や革新政党の組織化、文化運動を促すこととなった。

 長野県下で最初の労働組合の結成は、戦時中、前田鉄工所内に疎開していた荏原(えばら)製作所(本社東京・品川)長野工場であった。同工場の従業員は、同社川崎工場の従業員が賃金一〇割増額要求をかかげて運動に立ちあがったのに刺激され、戦前労働運動に経験のあるリーダーを中心に、昭和二十年十一月十五日に荏原製作所長野工場従業員組合が結成された。

 同年十一月十七日、信濃毎日新聞従業員組合が戦前の無産運動家山田邦夫(県町)を中心に結成された。引きつづいて、更級貨物自動車従業員組合(十二月一日)、長野電鉄従業員組合(十二月二十日)、前田鉄工所従業員組合(十二月二十五日)、長野工機部旋盤(せんばん)職場従業員組合(十二月二十七日)、吉池鉄工所従業員組合など同年末までに長野市をはじめ、県下に七労働組合が結成されはじめた。

 県内官公労のうち、国鉄関係では、国鉄長野機関区で、懇話会の会員だった北沢貞一や堺次喜知らが中心となって、昭和二十一年一月六日に長野機関区従業員組合を結成した。さらに、長野工機部従業員組合(一月十八日)、長野管理部部員組合(一月二十四日)、長野管理部単一労働組合(二月五日)と、国鉄関係の組合が相次いで結成された。

 また、同官公労、全逓・郵政局関係の組合では、同年二月二十三日に結成をみた岡谷郵便局従業員組合を皮きりに、信越管理部従業員組合(二月一日)、下諏訪郵便局、松本郵便局についで、長野郵便局従業員組合の結成と、二月に集中し、あわせて一五職場におよんだ。

 電気産業労働組合(電産)では、中部配電長野支社従業員組合が昭和二十一年一月十八日に結成された。

 私鉄関係の長野電鉄では、町田惣一郎の指導を受けた須坂市の職場青年連盟が、組合結成に理解のある課長、主任を加えて十二月十一日世話人会をつくったところ、これを知った駅長らも十二月十五日組合結成準備会を開き、同月二十日、会社重役も傍聴しての長野電鉄従業員組合が結成された。

 教職員組合では、木曽教員組合が昭和二十一年二月二十四日に結成されたのをはじめとして、相ついで結成されていった。長野市では、市内国民学校・青年学校・中等学校等の二二校をもって、十一月六日に鍋屋田国民学校において長野市教職員組合の結成大会が開かれ、執行委員長に三村正文(鍋屋田小学校長)、副委員長に森本弥十八(工業専門学校)を選出した。つづいて更級教員組合(同月十六日)、埴科教員組合(同月二十日)、上高井教員組合(同月二十一日)と結成されていった。同年十一月下旬に、上水内教員組合が松林実(七二会国民学校長)をリーダーに結成されるなど、県下各郡市において一九組合の組織化がすすんだ。まもなく、県的組織結成の機運が高まり、十二月二十六日、北佐久教組を除く一八教組(組合員約一万五〇〇〇人)の代表と組合員が鍋屋田国民学校に参集し、長野県教員組合結成大会が開催され、初代執行委員長に長野市教組三村正文(鍋屋田国民学校長)が選出された。結成直後の十二月三十日、県教組は二・一スト闘争委員会を組織し、スト態勢を確立するための活動に入ったが、長野市教組は先導的役割をつとめることとなった。(『長野県教組三十年史』)

 長野市職員組合(市職組)の結成は、はっきりしないが(現長野市職員組合では結成を昭和三十年二月十九日としている)、昭和二十二年(一九四七)二・一ストヘの取りくみ状況から、二十一年末までには結成されていたと推測される。市職組では、昭和二十二年一月十七日の闘争委員会で二・一スト対策について協議し、ついで開かれた臨時大会で、賛成一四六人、反対九八人で、スト参加を決議し、勢いを得た青年行動隊は、スト賛否をめぐって揺れていた県庁職員組合に出向き激励した(『自治労長野県本部四十五年史』)。

 急速にすすんだ労働組合の結成にともない、各労働組合の横の連絡が必要となった。昭和二十一年一月十日、長野自由懇話会の有力メンバーの堺次喜知(長鉄長野機関区従組)、佐藤三次郎(信毎従組)、小林喜治(県農業会)をはじめ各労働組合のリーダー二十余人が花屋旅館(県町)に集まり、、北信地方の労働組合連絡組織をつくるため長野地方労働組合連絡懇談会を開いた。以後数回にわたって、労働組合相互の連絡機関のあり方について種々協議を重ねた結果、全県的な組織結成へと方針をかえ、同年二月十二日「長野県地方労働組合協議会準備会」を開催することとなった。この会には、団体職員の代表大熊京衛(県庁工業課勤務)、長野地方耕作組合の代表三島喜太郎(県庁統計課)らが出席し、事務局を県町村田館とし、事務局員として堺次喜知、佐藤三次郎、江尻義一(前田鉄工従組)、大熊京衛(県庁従業員組合準備会)があたることとなった。その後、準備会には、長野市消費者組合準備会の代表が加わり、やがて国鉄長野管理部単一労働組合、長野工機部従業員組合、中部配電従業員組合、信越逓信管理部従業員組合、長野日赤病院従業員組合も加わって、大きな組織となった。

 同協議会準備会は、「国民の支持を受くべき労働組合運動の展開方法に関する研究」と題して、運動をすすめるにあたってつぎの八項目を発表した。

 ① 戦時中の官僚的、腐敗的指導面を切断する。

 ② 職場民主化の先頭に立つ。

 ③ 言動にたいし責任をもつ。

 ④ 大衆に迷惑をかけない争議方法の研究。

 ⑤ 労働組合の経営参加をはかり、労働組合にたいする社会の支持を高める。

 ⑥ 労働組合の経営参加により労働効率を高め、その結果を常に社会に公開する。

 ⑦ 組合幹部は私生活を清潔にする。

 ⑧ 政党に偏せず、労働運動の大衆的発展をはかる。(『長野県下の労働運動』小林キジ)

 長野県地方労働組合協議会(県労協)結成大会は、昭和二十一年二月二十七日、長鉄長野工機部菊田寮(緑町)において県下五八組合の代表約三〇〇人を集めて開催された。組合員数は約三万人で、結成された県下九六組合の約六〇パーセント、組合員数三万三三七〇人の九〇パーセント近くをしめた。昭和二十一年三月、労働組合法が施行されると、県下の労働組合の結成はさらに促進され、同年年末までに組合数四六〇、組合員九万五一六五人、組織率三八・四パーセントとなった(県労政課調べ)。

 県労協は、立場のちがいから長野県産業別労働組合会議(県産別、昭和二十一年九月)、長野県全労働組合協議会(県労協、昭和二十二年三月)、長野県労働組合会議(県労会議、昭和二十二年七月)、長野県労働組合連絡協議会(県労連、昭和二十四年一月)、長野県労働組合評議会(県評、昭和二十七年七月)結成へと組織がえがつづき、いずれも本部を長野市においた。県労協結成以降の労働組合運動は、全国連帯のなかで、県的規模の運動として広がりをみせた。

 県的規模の運動として、第一に、昭和二十一年四月十日、婦人参政権が認められた戦後初の総選挙への取りくみがあった。全県を一区とする三名連記の投票によって、県選出の国会議員一四人のうち、はじめて革新政党から四人の国会議員(社会党三、共産党一)を当選させた。

 つぎに、同年五月一日、一〇年ぶりに第一七回復活メーデーが全国で開催され、「食糧メーデー」とも呼ばれた。県下では四万人の組合員が参加し、県下一一会場のうち、長野駅前広場では、労働組合と農民組合の提携のもとに県中央メーデーが開催された。農民が大勢参加するため、北信地区農民団体協議会の要請で、農民専用列車が長野電鉄および国鉄長野労組を中心に手配された。集まった一万二〇〇〇人による長野駅前集会の後、中央通りをデモ行進して城山国民学校校庭で県民大会を開き、「県配給計画への労働者の参加、食糧供出割当への耕作農民の参加」などを決議し、デモ隊が県庁に向かい、物部知事に直接交渉し、要求を認めさせた。運動の高まりのなかで同年七月下旬、長野県庁職員組合が結成され、県下各地にわたる県職員の組織化がすすみ、九月中旬には、長野県職員組合の結成へとすすみ、年末闘争では、「歳末手当、越冬資金等の支給」を知事に要求した。


写真45 昭和27年5月1日の長野駅前広場での第23回メーデー
(『長野県教組三十年史』より)

 第三に、昭和二十一年(一九四六)七月二十五日に政府が発表した「国鉄従業員一二万九〇〇〇人、長野管理部内は二〇〇〇人整理」への反対運動であった。これは、国鉄労組を中心とした全国ゼネスト突入決議によって、長野管理部内の人員整理案の全面撤回が実現した。高揚期を迎えた県下の労働運動は、全国連帯のなかで、革新政党の協調のもと、組織をあげての運動が実を結び、昭和二十二年二月一日の二・一ストに向けた運動を経て、同年四月五日、初代公選知事林虎雄の当選へとつながっていった。

 昭和二十一年九月下旬、日赤長野病院では新任佐藤院長の追放問題をめぐって同従業員組合が二派に分裂したが、新院長の一方的な任命を労働協約違反だとする従業員組合側はゆずらず対立がつづいた。十一月下旬、日本赤十字社長野支部長(県知事)が副院長と従業員組合長を懲戒免職処分にするにおよんで、事態はさらに紛糾した。二十一年二月、県労働委員会および県産別の斡旋により、日赤副院長と従業員組合長の自発的退職および院長に対する善処を条件に長期にわたる紛争が解決し、分裂していた組合も合同した。

 昭和二十四年は、人員整理によって失業者がふえ、労働者の生活が困難さを増していた。全金属長野支部では、人員整理によって、九六〇〇人の労働者数が、半数以下の四五〇〇人となり、約八万人いた県労会議所属の組合員数は、六月には約六万人、十二月には二万九〇〇〇人と、急激に減少し、失業者の増加は深刻であった。

 昭和二十五年三月下旬、失業者が集まって、長野県連合会日雇労務者労働組合準備会を発足させ、七月になって、市内で長野自由労働組合が結成された。七月下旬、同組合は「夏季手当一五〇〇円、現行賃金一七六円の二〇〇円への引きあげ、お盆休暇三日間」などの決議をかかげて、長野市と職業安定所に要求した。組合員二〇〇人は市議会に押しかけ、長野市役所内では五〇人が座りこみ、市役所前ではハンストの闘争に入った。その後、組合が市との交渉を重ね、就労日数を増加させることで妥結した。闘争は県下二六支部に波及した。

 同年十二月初旬、年末闘争に入った同労組五〇人が、要求をかかげて市役所に押しかけ、警官二〇人と乱闘となった。組合員排除のため増員された一三〇人の警官隊と衝突、組合長以下三人が逮捕された。これに反発し、組合長の釈放を求めて組合員八〇人が、市長秘書室前において座り込み戦術に入ったところ、これを排除しようとした警官隊二〇〇人と衝突し、排除された組合員の一人が、組合旗を持って市庁舎の煙突にのぼり、気勢を上げる一幕もあった。

 川中島自動車株式会社従業員組合は、昭和二十一年六月、会社側の主導により結成され、委員長以下三役が選出されてはいたが、数年間、ほとんど組合運動もなく、制服制帽すら支給されない状態がつづいていた。昭和二十六年五月になって、副委員長や書記長らが、会社にたいし、「制服制帽の支給、残業手当の支給、歩合給の廃止」を要求したのにたいし、会社側は、二人を遠地に配置転換するという処置をとった。これを不当労働行為と抗議することを決意した二人が、私鉄県連の応援を得て、地方労働委員会へ提訴し、長野労政事務所が調査に乗りだした。その結果、十月五日、会社が地労委の最終勧告を受けいれることとなり、二人の職場復帰が実現して組合運動も主体性を回復することとなった。

 敗戦直後、急速にすすんだ労働組合の組織化を背景にした労働運動は、幾多の曲折を経て発展し、二十年代後半からの発展期を迎えた。