青年団の再建と活動

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青年団再建の動きは、敗戦後いち早く始まった。県連合青年団の再建にあたって、大坪県知事の支援をうけた戦前青年団OBは、町村会長の協力を得て、昭和二十年(一九四五)八月青年団再建協議会を発足させ「男女青年団組織要領案」によって郡市青年団を再建するよう県下の青年に呼びかけた。昭和二十一年二月までには松本市を除いた全郡市に連合青年団が結成されていた(『信毎』)。

 昭和二十一年二月二十二日、長野県連合青年団(以下、県連青)の結成大会は、全国に先がけ県立長野図書館において物部知事を迎え、上高井・上水内をはじめ一四の郡市連合青年団、男女青年六百余人が参集して開催された。役員は大会参加者による初の選挙によって幹事長に市川文夫(南佐久臼田)が、ほか役員全員が選出された。引きつづいておこなわれた第一回大会において「全国ニ先駆シテ県下三〇万青年団員ノ結成ナリ」、「我ラハソノ純真ナル情熱ヲ傾ケ」、「平和日本ノ建設ニ寄与センコトヲ欲ス」と宣言し、同時に「全国男女青年に贈るメッセージ」を発表し、全国に向け青年団の結成を呼びかけた。大会後、未加入の長野市、松本市、上田市、諏訪市、下水内、下高井、南・北安曇の各郡市にたいし県連青への加入を働きかけた。上水内郡連合青年団(以下、上水内郡連青)も同年二月十九日に結成され、大豆島、朝陽、柳原、長沼、古里、若槻、浅川、芋井、七二会、小田切、安茂里村の各青年団が加入していた(『創立三十周年記念誌』上水内郡連合青年団)。


写真46 昭和22年1月創刊の吉田連合青年団機関紙

 長野市連合青年団(以下、市連青)は二十一年三月末までに結成されていたが、県連合青年団の結成については、当初、市連青(大沢清忠団長)は、更級・下水内郡連合青年団と共に未加入の方針を決めていた。市連青では、県連青の結成が県主導によって早急になされたものであるとし、市連青が中心となって別の県的組織を設立しようとする動きをおこしていた。同年三月六日、県連青幹事長の要請をうけて市連青団長と話しあいの結果、「県連合青年団は、長野県自主化青年団の伝統によって生まれたものである」「両者に何らの対立がないこと」と意見が一致し、更級・下水内の各郡連青もこれを了承した。市連青では、同年五月二十二日の代議員会の議決を経て、翌二十三日、正式に県連青に加入した。更級・下水内郡両連青も五月上旬には加入していたので、未加入の青年団は、結成を目前にしていた松本市連青と結成間もない上田市連青および「思想動向上の問題で相容れない」とする下高井郡連青の二市一郡となっていた(『長野県社会教育史』)。


写真47 昭和22年度・23年度の浅川青年団記録簿

 結成当時、民主主義への青年の関心が高く、昭和二十一年十二月十五日長野市相生座において県連青と信濃毎日新聞社の共催により開かれた全信州男女青年団討論大会において、上水内郡代表増田正敬(中条村)は、「青年団政治運動の是非について」と題して発表し、また、更級郡代表田牧保(塩崎村)は、「土地国有化の是非について」を発表した。また、身近な政治への関心が高まった市内の各青年団では、二十二年町内会長改選期を前にして、青年団として候補者を推薦する動きがあった。青年団で候補者をあげ、大会で正式に公認候補を推薦し、青年をふくめ人物本位で町内役員候補者を推すなど、活発に動いた(『信毎』)。

 また、市連青では、二十三年十二月五日山王小学校で開催された北信地区青年討論大会に参加し、「青少年の不良化防止」「生活改善」などについて討論を深めた。結成当初から隣接の上水内連青とは連携して活動し、二十四年十二月十八日に上水内連青との共催による青年指導者講習会を開き、二十六年二月十八日の長水青年弁論大会では茅野和宣(朝陽村)、竹田嘉雄(芋井村)、中沢一(はじめ)(長野市茂菅)が意見を発表した。

 保健衛生面の活動では、上水内郡長沼村青年団が村内から性病をなくそうと、二十六年九月十四日青年団が組織する衛生改善対策委員会が全村に呼びかけ、長野保健所から医師二人を招いて未婚の男女希望者全員の血液検査をおこなった。

 青年団による各種スポーツ大会の開催も盛んとなった。上水内郡連青に所属していた大豆島、朝陽、柳原など平坦部青年団は、二十三年度陸上大会と野球大会で優勝している。また、初の埴科郡連青対抗駅伝大会は、二十六年十月七日郡青年団協議会、郡町村会、信濃毎日新聞社共催で開催された。郡下一五ヵ町村の各青年団ごとに七人の選手の各チームを編成し、スタート地点を寺尾村大室神社前とし、松代町-清野区岩野-屋代駅等を経由して終点の南条村鼠宿(坂城町)の神社前まで二七キロメートルにおよぶ大がかりな大会をおこない、以後毎秋開催されることとなった。

 青年団による奉仕活動もみられた。更級郡更府村青年団(長野市信更町)では、二十七年四月六日、女子団員をふくむ約三〇〇人総出で、冬の間に車のわだちで歩きにくくなった道路の改修に努力し、手弁当による奉仕のおかげで夕方までには元どおりの道路になり、村民から感謝された。

 朝鮮戦争の影響から青年団員の間には再軍備と講和問題に関する論議が盛んになり、二十七年更級郡塩崎村青年団では、再軍備問題について団員の世論調査を実施し、その結果を発表した。回答者男子一四一人、女子九五人の計二三六人のうち、再軍備に反対一〇六人(四五パーセント)、賛成七四人(三一パーセント)、無回答は二四パーセントであった。再軍備には賛成でも徴兵制度には反対で、志願兵制がよいとする者がその大半をしめた(『信毎』)。

 合併問題の解決に青年団の努力が実ったことがあった。二十六年(一九五一)四月埴科郡松代町と東条村、清野村の三ヵ町村の合併が実施された際に、「合併は時期尚早」としていた東条村中川の住民四三戸が合併後も反対の態度をとりつづけていた。この間、反対住民は、合併祝賀記念品の受けとりをこばみ、農協からの脱退、税金の住民代表による集金・積みたて、公職はじめ役職員をいっさい返上するなど、強硬な態度をくずさなかった。事態の打開にむけ埴科地方事務所長をはじめ地元選出の県議による和解のためのあっせんがつづけられたが、なかなか進展をみなかった。この様子をみて町の将来を心配した東条村中川の小河原団長はじめ青年団一同は、今までの行きがかりを捨てて合併に賛成するよう家族や住民に熱心に働きかけた結果、二十八年四月八日、善徳寺(中川)に住民と町長をはじめ関係者が集まり、和解の手打ち式をおこなって問題が解決し、青年団員の誠意ある努力に感謝の声がよせられた(『信毎』)。

 当初盛りあがった青年団の活動も、戦後の都市化の波にともなう周辺農村部からの通勤青年がしだいに増加したこともあり、農民組合青年部や職場サークル、農協青年部、4Hクラブ、公民館青年部などの活動をする青年の増加によって青年団活動が手うすになり、青年団員もしだいに減少していった。そのため、会費収入が減ったため、健全な予算運営が困難になり、大きな課題になっていた。上水内郡連青では、二十七年度決算総会において、会員の減少、予算不足による青年団活動のいきづまりが問題となった。加入二八青年団のうち、上水内郡連青の分担金一五〇〇円か納められないところがすでに十数ヵ村の青年団にのぼっていた。その打開策として、「青年団活動の公民館事業への位置づけ」、「法改正による青年団への補助金制度の復活」へ向けた運動がなされた。

 市連青でも、農村部の都市化による青年団員の減少の傾向が昭和二十五年ころから目立っていた。当時、すでに中心市街地の青年団活動はほとんど有名無実となり、市連青の事務局が機能せず、各単位青年団の活動もほとんど停止状態となっていた。このことを心配した青年団有志が青年団立てなおしのため、二十五年(一九五〇)五月二十七日に城山大会場に市青年団体協議会を開催し、今後の組織のあり方について協議した。当時、市内には地区青年団が、一二団体、有志的青年団六となっていた。この実情にあわせ、それまでの地域団を単位とする連合体組織を改めて地域の単位団と有志青年による長野市青年団協議会とし、情報交換によって一体的活動を目指すこととなった。

 『のびゆく長野市』(昭和二十七年長野市教育課)によると、当時、市連青(市青年団協議会)は一二の単位団で、会員も約五〇〇人となっていた。各単位団は長野市連合婦人会(会員約五〇〇〇人)と同様の町単位に組織され、旧市街は権堂青年団、中御所青年団をふくむ三から四の青年団で、大部分は農村部青年団からなっていた。団の運営は市青年団協議会を中心に団員の教養を高めることを目的に、各種研究会や講習会に参加した。おもな研究会としては、社会教育研究会、政治研究会、レクリエーション研究会などがあった。二十六年度には、長野市教育課の文化事業である青年団指導者講習会(定員各三〇人)が年二回二泊三日の日程で、五月(上松昌禅寺)と九月(善光寺堂照坊)に開催された。