昭和二十年(一九四五)敗戦とともに大日本婦人会は解散となった。同年十二月十七日に選挙法改正公布とともに婦人参政権が認められ、翌二十一年四月には総選挙が実施されることとなった。そこで高野イシ・船坂千代の二人が主唱者となって、自主的な婦人会をつくろうと有志とともに協議をすすめた。婦人もただちに行動をという呼びかけに応じて、市内各町に婦人会の結成が始まり、二十一年一月末には全町に組織ができあがった。そこで二月十二日に各町婦人会の代表者が城山館に集まって、長野市連合婦人会(以下、市連婦)を結成した。初代会長に高野イシを推し、会員は約五〇〇〇人、事務所を長野市役所内においた。当初の組織は会長一人、副会長二人のもと、企画部・財務部・教養部・厚生部・レクリエーション部・接待部からなり、事務を船坂千代が担当した。同年五月二十四日には長野県連合婦人会が結成され、高野イシが初代理事長(二十三年から会長と称す)に選ばれている。
二十一年一月二十日には連合国長野軍政部主催でミス・グレーラムを講師として、各郡市婦人会長・各婦人団体代表二百余人を集めての婦人指導者講習会が開かれ、民主的婦人団体のあり方について指導を受けた。そこで、市連婦が発足後ただちに取りくんだのは、政治学習と公明選挙運動であった。四月十日の総選挙にたいしては、市連婦の手で立会演説会を開き、棄権防止運動など積極的な活動を展開した。二十二年四月三十日の統一地方選挙では、政治結社長野市婦人連盟を結成して政治教育をすすめるとともに、市会議員にはじめて四人の婦人候補をたててたたかったが、この時は当選を果たすことができなかった。県内全体では、市町村会議員婦人立候補者一二五人中、当選者は四九人であった。六月二十八日には、軍政部婦人指導官ミス・リーの講演会も開かれている。
二十二年四月からは「冗費をはぶいて生活設計へ」と簡素化結婚式を提唱して、十日には五明館において最初の結婚式を実施した。生活改善をモットーに、簡素(当初の一人前の祝膳は三〇円)で厳粛な結婚式は好評を博し、表29でみるように、二十二年から二十九年までの八年間に一三〇〇組の簡素化結婚式がおこなわれた。三十四年五月に廃止するまでの一三年間に、利用者は二〇〇〇余組にも達していた。この事業は三十四年県婦人会館新築を期に県連合婦人会に引きつがれたが、生活改善に果たした役割りは大きかった。
二十三年十月には市連合婦人会が中心となって長野市婦人連盟・友の会(『婦人の友』会員)・民主婦人会などとともに、物価引きさげ運動婦人協力会を組織し、十一月二日に加盟団体代表五〇〇人を集めて物資の欠乏と物価高に抗議し、権堂の映画館で物価引きさげ運動大会を開催した。さらに、市連合婦人会独自で十二月から毎月八の日に権堂秋葉神社前で日用品の安売りを始めた。とくに年末三日間は正月用品の特売をおこなった。これらの運動と経験は、二十四年の婦人生活協同組合設立へと発展した。
二十四年に藤井のぶが会長に就任した。会則を改定して市連合婦人会の機構をさらに整備した。また、単位婦人会の実態を調査して、組織の確立と育成につとめた。委員会には、総務・教養・社会教育・社会・結婚式・読書・レクリエーション・体育・接待・保健衛生・生活指導・生活技術・厚生の一三部門を設け、事業としては、研修会・婦人学級・研究会(経済講座・公民館との地区講座など)・講演会・講習会(和裁・洋裁・料理)・新年大会(親睦と協力)・簡素化結婚式斡旋・視察見学・慰問(三帰寮など)・貯蓄推進・募金協力(赤い羽・歳末)・レクリエーション・生活改善(かまどの改善)・里親デーなどに力をそそぎ活発におこなわれた。とくに貯蓄の奨励活動では、貯蓄推進功労者として大蔵大臣表彰を受けた。
二十六年には中澤篤子が会長となり、読書会・運動会・助けあい運動(労力や内職斡旋)などの事業をおこし、地方統一選挙では、市連合婦人会推薦によって県会議員に一人、市会議員に一人の婦人候補を立て、婦人連盟と一体になってたたかった結果、二人とも当選を果たした。昭和二十九年(一九五四)の近隣一〇ヵ村との合併によって、各村婦人会も円満に市連合婦人会に加入して、会員数一万二〇〇〇人の大世帯となった。合併後の昭和三十一年五月の役員改選では、会長には初代会長であった高野イシが再び選ばれた(『長野市連婦だより』『長野県連合婦人会二十五年史』)。
現長野市域の各町村でも昭和二十年から二十一年にかけて、戦時体制の婦人会を解体し民主的な婦人会をめざした結成がおこなわれた。しかし、農山村部では戦前の形をひきずって、顧問に村長・学校長・農協組合長などをすえたり、理事に学校の婦人教師をいれて活動をすすめるところもあった。
これらの町村婦人会により組織された郡連合婦人会が、県内各地で結成された。女性たちは、戦後の混乱期のなかで新しい時代の息吹にふれ、きびしい生活にたえつつ準備会を開いて、つぎつぎに新しい連合婦人会を結成して県連合婦人会に加盟していった。現市域に関係する上水内郡連合婦人会は二十一年五月十日に、更級郡連合婦人会は同年四月十二日に、埴科郡連合婦人会は同年六月一日に、上高井郡連合婦人会は同年四月二十日に結成している。いずれも組織づくりと会員相互の親睦につとめつつ、政治や民主的な会運営についての講演会・講座を開き、公明選挙をかかげて女性の代表を議会に送ることもすすめていった。また、衣食住の生活の合理化・栄養改善・住まいや台所改善につとめ、読書会・各種講習会などを開いて、共に成長をめざしていった。
各町村婦人会は、地域性を生かしつつそれぞれ独自の活動をおこなっていた。その活動の中には、未帰還者の留守宅や海外引揚者への援護活動、三帰寮・波田学園・養老院・母子寮・国立病院などへの見舞い、機業(はたおり)・家庭看護法・作業衣製作などの講習会、花嫁衣装をつくって会員への貸しだしなどの婚礼の簡素化、敬老会・成人式の手助け、映画会、コーラス、見学視察旅行、物資の斡旋などがあった。
日本赤十字社が昭和二十二年に、全国市町村単位での男女ふくめての奉仕団の結成を始めると、長野県内でも二十三年には各町村では婦人会をそのまま日赤奉仕団として組織化するところが多かった。日赤奉仕団としては、献血協力・福祉バザー・歳末助け合いの街頭募金・炊き出しや救助方法の訓練などがおこなわれた。二十四年に農業協同組合からの働きかけで、農協単位で農協婦人部が結成されたが、日赤奉仕団と同様に農協婦人部は婦人会と異名同体のところが多かった。
このほか、二十五年九月には長野市で市連婦・市農協婦人部・日赤奉仕団・助産婦会・看護婦会・未亡人会がいっしょになって、長野市結核予防婦人会を結成して、当時多くの青少年の生命をおびやかしていた結核に立ちむかう活動を始めた。この結成は、北佐久郡御代田小学校結核集団発生事件(二四人感染・二人死亡)によって、危機感をいだいてのことであった。結核にたいする婦人の意識の啓発、検診車購入の募金活動などを始め、二十七年には城山館で結核予防推進大会を開いた。他郡でも二十九年十二月までに、同婦人会の結成をほぼ終えている。