昭和二十一年(一九四六)二月十九・二十日、京都市京都新聞会館で全国部落代表者会議を開き、部落解放全国委員会を結成して委員長松本治一郎らの役員を選び、行動綱領・宣言・決議を決定した。これを受けて同年四月、関東部落代表者会議が群馬県磯部温泉で開かれた。長野県からは、部落解放運動の指導者であった朝倉重吉をふくむ八人が出席した。
この八人の出席者を中心に旧水平社と旧信濃同仁会の活動家が集まって、同年十月埴科郡戸倉温泉において、松本治一郎を迎えて長野県部落代表者会議を開き、組織の結成について決議した。『差別とのたたかい 部落解放三十年の歩み』に、同年九月六日付け長野県総務部長あての、部落解放全国委員会長野県連合会委員長朝倉重吉名による団体設立届けの写真が掲載されている。その文面は「いっさいの封建的残滓(ざんし)を払拭(ふっしょく)し、民主主義日本を建設して部落民衆の完全解放をはかるため、昭和二十一年十一月八日左記の通り団体を設立し、爾来(じらい)目的に向って運動を実施して居りますので、将来何分の御援助を賜りたく此段御報告申し上げます」となっており、規約は、「来る九月末本会大会を開催の上決定する予定で、それまで別紙(一)全国本部の規約を準用する」としている。この届け書の日付は県部落代表者会議の直前であり、県連合会の実際の旗揚げは二十三年五月であったから、この届け書は下書きにとどまったと推定されるが、部落民衆の完全解放をはかるために、敗戦一年後にはすでに部落解放全国委員会長野県連合会をつくり、委員長に朝倉重吉をあてようとしていた動きが始まっていたことがわかる。また、同年十月十五日上田市豊原町公会堂で、上田市部落解放委員会が結成された。
県部落代表者たちは、翌二十二年四月上田市若菜館で部落解放全国委員会長野県連合会結成準備会を開き、結成大会に向けて諸活動を開始した。この動きのなかで同年十一月に、東北信から七〇余人を集めて部落解放長野県青年同盟を結成し、委員長に小山勇(川田村)を選んだ。そして、翌二十三年二月には別所温泉つるや旅館で、部落解放長野県青年同盟指導者講習会を開いた。中央本部から石田重成、県内から朝倉重吉・成澤英雄を講師として迎え、約四〇人が参加して県連合会結成の推進力となっていった。
二十三年五月二日長野市本願寺別院を会場として、県内各地から約四〇〇人(受付名簿記入者三三八人)の人々が集まり、部落解放全国委員会長野県連合会を結成した。高揚した雰囲気のなかで、来賓の中央委員長松本治一郎(参議院副議長)、林虎雄県知事、藤巻幸造教職員組合執行委員長などの力強い支援の挨拶があり、つづいて規約・綱領・運動方針・宣言・役員などを決めた。初代委員長に朝倉重吉、書記長に成澤英雄、会計に成澤伊吉が選ばれた。(『差別とのたたかい』)
『信毎』は五月三日、「破戒の〝丑松〟なくせ きのう部落解放県連大会」の見出しで「席上県下にいまもってみられる差別待遇について討議し、これにたいし、松本委員長は調査団を派遣することを約し[新憲法にある基本的人権の尊重を描かれたもちとせず、政治、経済、社会いっさいの差別待遇をたち、部落民の完全な解放をおこない、真の民主主義の推進力とならん]との大会宣言を発表し、全県的に運動をおこすことになった」と報じた。また、同紙面で、いまもってみられる差別待遇として、小県郡袮津村の区有林・青年団・祭礼での差別、上高井郡高井村の祭礼差別の事件を報じている。部落解放長野県連の差別とのたたかいは、この二つの差別事件にたいする取りくみに始まった。『信毎』はさらに五月九日、「部落解放を忘れるな」と題する社説で、「去る二日長野市で開かれた部落解放県連大会が、あたかも新憲法施行一周年の前日であったことは、その極端な対照に考えさせられるものが深い。『人権宣言』を冒頭に政治、経済、社会、文化あらゆる面における人格の平等を規定する新憲法の施行一周年の記念式典や行事がおこなわれる一方において、なおかつ部落解放運動かおこなわれねばならない現実を、われわれは深く反省しなくてはなるまい。」と書きだし、新憲法の精神と県連大会宣言にたいし、日常生活のあらゆる差別は封建制の象徴である、この矛盾を解消する努力が差別を受ける当人の主導によっておこなわれねばならないことは情けないことである、新憲法による徹底的な部落解放を、と説いている。
これより先の昭和二十二年十月、初代民選知事として林虎雄が選出された。林虎雄は社会運動家として大正十三年(一九二四)の長野県水平社創立大会に出席しており、部落解放運動とは早くからつながりをもっていた。林知事は長野県振興委員会を組織し、一七の特別委員会を設置した。そのなかの一つに部落問題特別委員会があり、委員は専門委員の黒岩市兵衛・藤巻幸造、臨時委員の朝倉重吉・成澤英雄・成澤忠雄・高橋只雄・小林杜人ら九人であった。林知事は同特別委員会の答申に基づいて、昭和二十三年十二月「長野県部落解放委員会」を設け、委員には部落代表者・学識経験者・県関係者を任命した。
二十三年十二月末から長野市の相生座・松本市の開明座・上田市の電気館など都市の映画館で、信濃毎日新聞社主催の松竹映画『破戒』鑑賞週間が設けられた。二十四年の五月にはいると、各市町村主催、信濃毎日新聞社・長野県部落解放委員会後援の映画『破戒』の上映運動が始まった。県から民生部厚生課の担当職員、県連から中山書記長が出席してあいさつをした。長野県民生部長からの小田切村長あての通知は「映画 『破戒』上映について」として「我が国が平和国家文化国家として真に民主国家を実現するためには、今後解決すべき問題は極めて多いのであるが、とりわけ、部落解放問題は最も大きな一つであると考えられる。そこで、県では昨年十二月長野県部落解放委員会を設置し、本問題に関する諸般の事項を研究審議し、その実施を促進することとなったが、さらに、今般本運動の一助として別紙要項通り映画『破戒』を上映することになったので、右趣旨御了知の上協力願いたい」として、上映期間は五月二十四日から一ヵ月間、申しこみは五月十七日までに県厚生課へ、映画器具借用料は上映一回五〇〇〇円・二回六五〇〇円、上映は小学校体育館か公民館で、技師二人と器具運搬は各市町村でということになっていた。小田切村ではこれに応じて申しこみ、六月三日に上映をおこなっている。
同年四月二十六日に開かれた第二回部落解放県連大会において、委員長に朝倉重吉を再選し、新たに副委員長に成澤英雄、書記長に中山英一を選び、本部を南佐久郡栄村の中山英一宅においた。二十五年には埴科郡・上水内郡内で学校給食差別・村祭り差別事件がおこった。二十七年には上水内郡浅川小学校児童差別言辞事件がおこって村民大会が開かれ、これは子どもや学校だけの問題ではなく、地域全体の問題であるときびしく指摘された。これらの差別事件を通して、根強い差別意識を指摘され、具体的な差別撤廃と学校・社会の同和教育の緊急性が叫ばれるようになった。林県知事も被差別部落視察をおこない、部落解放への決意を表明した。
『信毎』は二十四年七月六日の社説「誤った歴史の改訂」として被差別部落の人々への誤った歴史観の放置の問題をとりあげ、二十五年五月二十三日の社説「差別待遇の根絶」でいくつかの差別事件をとりあげ、その根絶を訴えている。
県は解放運動の要求に動かされて、二十五年に農機具無償貸与制度、二十六年に部落解放更生資金貸付制度(機械器具・家畜導入・更生資金・子ども会育成など)を創設し、二十七年部落環境改善費補助制度(道路・飲料水施設・下水・住宅・浴場・災害補修など)をつくり、県部落解放審議会を設置した。さらに、二十六年に啓発冊子『開け行く日本』を、二十七年に『同和教育のために』を県内市町村、小・中・高校へ配付した。