生活困窮者対策と民生委員

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敗戦後の食糧・衣料等生活必需品の不足からくる物価の急騰(きゅうとう)は、戦争未亡人や海外引揚者をはじめとする生活困窮者の生活を直撃したため、生活難を救援する緊急対策の必要性が高まっていた。

 上水内郡小田切村では、昭和二十一年(一九四六)五月、県の指示により緊急生活援護を実施し、生活困窮者の住宅・生計等の実態調査に基づいて、生活、医療、埋葬、生業、助産の各費用を補助した。戦時中、横浜市から疎開し、八歳、六歳、四歳の女児をかかえ、夫が未復員の母子世帯の場合、「夫出征中、疎開者にして其のうえ財産等なく、子供をかかえての生活は相当困難」とし、申請額五〇〇円にたいし一四一円が支給された。

 同村は、二十二年八月、要保護者選定のための基礎調査を実施し、地方事務所を通じて県に報告している。その内訳は、戦災者八世帯(二七人)、外地引揚者二四世帯(四八人)、復員軍人一三一世帯(一三一人)、軍人遺族七五世帯(三七五人)、在外者留守家族五世帯(一〇人)、傷痍軍人一四世帯(一四人)、一般生活困窮者一八世帯(五四人)で、合計二七五世帯(総世帯数の五〇パーセント)、六五九人(総人口の二一・九パーセント)に達した。このうち、「施設外で公的保護を受けた世帯および人員数並びに給与金額」報告書によると、同年八月中に保護を受けた世帯数(一人世帯をふくむ)は三三世帯(総世帯数の六パーセント)、一〇二人(総人口の三・三パーセント)となり、給与金総額は、一万二七一円七〇銭にのぼった(小田切村『生活保護法による保護状況月報綴』)。

 長野市においては、昭和二十二年の「国民たすけあい運動」に呼応し、「長野市国民たすけあい運動実施要綱」を作成し、市民に運動への理解と協力を呼びかけた。国民たすけあい運動長野市実施委員会は、市内小中学校・婦人会・青年団・民生委員協議会等の団体をもって構成され、協賛団体に長野市と同胞援護会長野市支会が名を連ねた。運動期間を同年十一月二十五日から十二月二十五日までの一ヵ月間とし、①運動の趣旨普及のためのポスター作成と講演会・座談会の開催、②援護資金の募集および拠出金品の贈与、③一斉社会調査の実施、④生活相談所の開設、⑤歳末無料診療等の運動を展開した。


写真54 昭和27年の共同募金運動要綱の表紙

 いっぽう、県下の戦争未亡人たちは、昭和二十四年(一九四九)九月十日、長野市善光寺大本願において、県下全域から約三〇〇人の代表が集まって長野県未亡人連盟の結成大会を開いて、規約を承認し役員を選出した。大会では、①寡婦(かふ)年金の支給、②未亡人と遺児への就職斡旋、③授産所、母子寮などの増設、④生活扶助、生産資金制度の充実、⑤義務教育に児童福祉法の優先活用、⑥農作物供出の軽減、⑦税負担の軽減などの実現へ向け、県当局に要求する決議をおこなった。大会後の懇談会では、南佐久郡から出席した農家の未亡人のように、二人の子どもをかかえ血液を売って納税しているなどと、生活苦や不合理な税制についての訴えが続出した。

 県未亡人連盟では、二十五年、県下の学校給食完全実施にともなって生じた給食婦の不足問題にたいし、給食婦に未亡人を優先して採用するよう要求した。県(労働部)は、失業対策として、輪番制勤務による未亡人の優先的採用を県下各自治体に要請したが、市は、不足する給食婦三五人を常勤で有資格者を採用したいとし、県と対立した。この問題は、同年十月開かれた臨時市議会でも論議されたが、三十一日に県未亡人連盟会長出席のもと、同一校常勤を条件に、未亡人六〇人の応募者から三五人を優先して採用することで解決した。

 こうした生活困窮者に対し必要な援助を担当する委員として、昭和二十一年九月までは戦前からの方面委員が担当していた。同年十月生活保護法(旧法)施行にともなう民生委員令により、方面委員(任期四年)が、民生委員(任期二年)と改められ、その任務を生活保護事務に関する市町村長の補助機関と位置づけられた。昭和二十三年(一九四八)一月に、児童福祉法が施行され、民生委員は児童委員(戦前は児童救護委員)を兼務することとなり、同年七月民生委員法の施行により、委員の任期はそろって三年となった。


写真55 民生委員の前身である方面委員の昭和21年3月発行の機関紙『方面時報』

 昭和二十五年五月施行された生活保護法(新法)は、日本国憲法第二五条の規定する理念に基づいて「国が生活に困窮するすべての国民に、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的」とした。その内容は、生活、教育、住宅、医療、出産、生業、葬祭の七種類の扶助からなり、民生委員の活動は、それまでの補助機関としての任務から、福祉事務所長、市町村長、社会福祉主事の事務執行に協力し積極的に活動する任務へとかわった。

 上水内郡三水村民生委員会では同村青年団とともに村内農家に呼びかけ、二十七年(一九五二)一月「もち一戸一キレ運動」を始めたところ、全村で三四貫(一二七・五キログラム)も集まった。一月八日、青年団員は集まった善意のもちを背負って長野市三帰寮(西長野町)と善光寺大勧進養老院を訪問し、村民の心づくしのもちを贈って大いに感謝された。同青年団では、つづいて翌一月九日には更級福祉園(長野市信更町)を訪問し、もちを贈った。三帰寮へはこの年の正月になってからすでに市内南石堂町婦人会、更級村(戸倉町)役場・民生委員・婦人会、村上村(坂城町)婦人会などからもちが贈られ、子どもたちの大喜びする姿が報じられた(『信毎』)。

 昭和二十八年(一九五三)一月、上高井郡民生委員会では、郡下の各町村一一五人の全民生委員が一ヵ年中に一人一世帯の更生運動をおこなうことになった。それまでの民生委員の活動は、ややもすると生活の苦しい家庭を探しだして福祉事務所へ連絡し、手つづきをとって資金を給付することが中心であった。今後、民生委員本来の役目を困窮家庭更生のためのよき助言者となることとし、「一民生委員一更生運動」により、郡内五六〇世帯保護家庭のうち、まず一一五世帯の更生に向け活動をはじめることとなった。

 昭和二十四年四月に開かれた第二回長野県民生・児童委員大会の部会協議で、市民生委員連絡協議会は、①民生委員に専門の委員をあてる(上田市と共同提案)、②養老院・母子寮・授産所等拡充強化(埴科、上水内と共同提案)、③優生保護法の運用と趣旨の徹底(更級と共同提案)を提案し、採択された(埴科郡寺尾村『民生委員会関係綴』)。

 第一回長野市民生・児童委員大会は、昭和二十五年六月九日城山大会場において開催され、ララ物資(アメリカ民間一三団体による食糧、衣料、靴、医薬品等による救援。長野市長を委員長とし、民生委員常務委員で構成するララ物資配分委員会が担当)と国際連合ユニセフ物資(児童基金による母子・児童援助)の支給にたいする感謝状の贈呈、全国大会で優良民生事業地区として表彰された第一民生委員協議会と知事賞受賞委員の披露をおこなった。研究協議第一部会では生活保護法に関して一七事例を、第二部会では児童福祉法に関する一八事例について、熱心に研究協議された。


写真56 戦後の日本はユニセフ物資・ララ救援物資の提供を受けた

 こうした民生委員の活動により、昭和二十五年(一九五〇)四月、長野市第一地区民生委員協議会(第一支所管内茂菅、西長野など一七ヵ町)が、厚生大臣から表彰されることとなった。同協議会は、男女各一三人、計二六委員で三五〇〇戸、一万八〇〇〇人の大世帯を担当していた。加茂保育園の建設をはじめ、全町内に母の会および子ども会を結成し、妊産婦の無料診察、生活保護をはじめ各事業に関する討論会・懇談会・慰安会を開催するなど、取りあつかい件数は毎月平均一五〇件にものぼり、委員の献身的な努力が評価された。