児童福祉施設の開設と拡充

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第二次大戦後の混乱した世の中で、戦災で親を失い身を寄せるところのない子どもたちが、都会の街の中ばかりでなく長野県内にもめずらしくはなかった。自分の生活を立てるのに精一杯の毎日を送っている状態の社会では、これらの子どもたちの保護育成の必要性が叫ばれはしたが、その実質的活動の歩みは遅々としていた。

 昭和二十三年(一九四八)四月の児童福祉法施行により、里親制度や児童福祉施設の設立や認可がすすめられるようになり、行政の力による本格的な取りくみがされるようになった。また、同法により市内旭町に長野中央児童相談所が開設され、要保護児童の保護措置や青少年不良化防止対策がとられるようになった。二十六年十月における取りあつかい数は、相談・助言四〇、施設入所二一、訓戒誓約二一、里親四であった。

 この当時の市域には、明治十六年(一八八三)三月十日大勧進副住職奥田貫照師の創意にもとづいて創立された、慈善事業施設「大勧進養育院」の育児施設三帰寮が、定員三〇人で西長野に存続していた。社会的緊急要請を受けた三帰寮は昭和二十三年五月、施設の一部を一時児童保護所として一年間貸与する契約を、県知事との間で結んでいる(『潤生』-三帰寮・尚和寮一〇〇年の歩み-)。

 長野市南部では、埴科仏教会が海外引き揚げ孤児や戦災児童のための理想的家庭寮を経営して教育し、成人するまで親代わりに面倒をみることを計画した。その場所を埴科郡西条村(松代町西条)の旧大本営予定地の建物と定め、地元や所有権をもつ大蔵省と折衝した。二十一年九月の事業計画では、予算二七万円で一口一〇円の会員組織からの収入、交付金、団体補助金、寄付金でまかなうこととしていた。設備は軍隊が使用した藁布団(わらぶとん)・毛布・敷布の払いさげ品、ぶらんこ、すべり台、ピンポン、砂場、おもちや、レコード、ピアノ、オルガン、絵本等を予定していた。「恵まれない児童に愛を」という理念から「恵愛学園」と名づけ、二十二年三月には東京都より戦災児童等二二人を、二十三年には県内児童も収容して始まり、東京都と長野県から児童福祉法による養護施設として認可を受けている。


写真57 創設当時の恵愛学園
(『草創をふりかえる』恵愛学園より)

 ところが、二十三年四月、収容児童の小学校入学をめぐって、地元との間に問題がおこった。『信毎』によれば、学園では開設当初は、収容児童たちのけんかや盗みぐせに手をやいたが、指導の成果があがり、収容児童たちはしだいに素直な性質を取りもどし、入学を待ちのぞむようになった。この間に里親に引きとられた児童が里親の居住地の学校に転入したという便りももたらされて、その願いはいっそう強いものとなっていった。さらに学園では、収容児童たちの学力回復の特別教育をつづけた。その結果四、五学年相当年齢の八人が、学校という新しい集団生活に適応できる性質と学力が認められるとして、西条小学校への転入を学校や村当局に申しこんだ。

 新聞によると、これにたいし村では「戦災孤児は浮浪児であり、うちの子どもといっしょにして悪いことでも教えこまれたら大変だ。」とか、「去年は柿は盗み、畑を荒らし石垣を崩すなど手に負えなかった。甘いこと言えば増長し、怒れば仕返しをすると聞いている。村の子どもといっしょにさせて、悪い影響を受けたら困る。異動証明があるだけで寄留もしておらず、机・いすの税負担も大きくなる。」などといって、受け入れに否定的見解であった。PTAでも、受け入れ反対の態度をかえないことを総会で申しあわせていた。学校側でも「学籍簿がなく、前学年も修めていない。年齢より下の学年へ入れれば、両方とも悪い結果になる。かといって、年齢相当の学年へ入れることもできない。孤児という特別な子どもが集まっているのだから、特別教育をするのがよい。」との見解であった。県学務課では「義務教育だから拒否する理由はない。」との立場から、関係者と懇談をつづけた。その結果、村からつぎのような三条件が提示された。

 ① 園児を現在の一六人以上に増員しないこと。

 ② 就学の際は、机その他必要な設備はいっさい学園側が負担すること。

 ③ 不良児は村外にやること。

 仏教会側でもこれらの条件を検討して、受けいれて解決をはかることになったと、『信毎』は報じている。

 篠ノ井横田に児童福祉施設円福寺愛育園を設立した藤本幸邦住職は、設立のきっかけとなった昭和二十二年晩秋の上野駅での戦災孤児との出あいをつぎのようにのべている。「列車に乗ろうと並んで待っていたとき見かけた子どもたちは、靴みがきをする子はよいほうであった。たばこの吸いがらを集めては、巻きなおしているおじさんのところへ持っていき、巻きなおしたたばこを受けとって、それを並んでいる人たちに売る子、麻袋で作った座布団を並んでいる人に貸してお金をもらう子、なかには弁当を広げている人に食べものをねだって、かなわないとつばを吐きかけてにげる子などがいた。たまたま、手もちのりんごを一人の子どもに渡すと、その子はにっこり笑って〝ありがとう〟といって、なかまの二人を呼び三人で回しながらかじりあった。この子どもたちの助けあって生きる姿にほだされて、一緒にわたしの寺に連れて帰ることになった」(『おっしゃん』)。


写真58 円福寺愛育園の児童居住棟なかよしの家
(『円福寺愛育園の五十年』より)

 二十三年五月に開設された円福寺愛育園の園児の中から、二十七年三月には通明中学校で校友会の委員長をつとめた生徒が屋代東高校全日制に合格したことや、印刷所に勤めながら学ぼうとして、屋代東高校定時制に合格した生徒がでたことが、新聞紙上で報じられている。

 二十五年五月になると、更級郡社会福祉協議会により信田村赤田(現信更町赤田)に、更級福祉園(定員五〇人)が認可を受けて七月に開園している。四十一年長野市の大合併等により更級郡社会福祉協議会の存続ができなくなったことにより、四十三年四月設置主体は社会福祉法人長野市社会事業協会に移管となった。

 二十七年四月には松代福祉寮(寮長玉井裕治)が認可を受け、五月に松代町東条に定員三〇人の児童福祉施設として開設されている。設置主体は、元校長で前三帰寮指導員であった玉井寮長の、松代小学校での教え子たちの同級会を中心とした「社会福祉法人湖(みずうみ)同級会」であった。恩師が、「かねてから、不幸なみなし子を育てて立派な社会人にしたい、と考えてきた。それを実現するには、立派な養護施設がほしい。」と、念願しているのを耳にした、町会議員佐藤重三・洋品業香山隆治ら二〇余人が、同級会で申しあわせをして達成した(『信毎』)。同級会では七万円を出して、松代町が所有していた旧東京無線工場(二階建て七間×四間)を八万円で買収して提供したほか、各方面をまわって施設費・改修費など予算四〇万円の金策をしている。施設の拡充がすすめられるなかで世代がかわっているが、設置主体は湖同級会員の子弟たちに引きつがれて、社会福祉法人湖会となっている。


写真59 松代町東条の松代福祉寮

 これらの児童施設には、アメリカの宗教団体等一三団体で組織された「ララ」から救いの手が差しのべられ、粉ミルク・干しブドウ・コンビーフなどの栄養食糧のほか、子ども用の洋服・洗濯石鹸などの物資が二十七年まで贈られ喜ばれた。県内からも上水内連合青年団が小布を利用して足袋・パンツ・シャツなどをつくり、食糧品や雑貨品とともに持参して施設を訪問したり、上水内連合婦人会が家庭で不要になった帽子・靴下などの衣類を集めて届けたりしている。そのほかの婦人会・役場職員や民生委員などからは、正月用餅が贈られるなどの支援活動がみられた。

 その後の市域の児童福祉施設は、施設の改善をはじめ表30のように、創立時とくらべ設置場所・設置経営主体・定員などの変更はあるが、地域に根をおろし、地域と一体となって児童福祉向上の活動をつづけている。


表30 長野市域の児童福祉施設