学校など公共物の焼失

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昭和二十三年(一九四八)六月一日午後一〇時四〇分ごろ、長野市城山小学校新校舎東側理科室、裁縫室付近から出火し、発見がおそかったのと水利の便がわるいうえに西南十数メートルの強風にあおられてたちまち燃えひろがり、中央校舎(二階建七五二・四平方メートル)、新校舎(二階建六〇七・二平方メートル)、第二校舎(二階建五五七平方メートル)、体操場(平屋四四二・二平方メートル)の四棟と物置、便所、廊下など総建坪二二一九・二平方メートルを全焼した。これは全校舎のほぼ三分の二を失うものであった。残存校舎は第一校舎、第三校舎、第四校舎、保育校舎、使丁室であった。そのほか、給食用放出物資の缶詰を相当量焼いて二日午前〇時一〇分ごろ鎮火した。かけつけた父母や一般市民の協力で重要書類、ピアノなどの備品類はほとんど持ちだしたが損害は約一〇〇〇万円であった。出火原因は一市民の放火であった。

 翌日の三日は八時二〇分から午前中一~四年、午後五、六年の二部授業がおこなわれた。また、城山小学校卒業の長野北高校生徒(現長野高校)約五〇人が二時から五時まであとかたづけの奉仕作業をした。この日はPTA会員延べ約九〇〇人と青年団員も出動、終日焼跡の整理作業にあたった。

 市では、市内各校から不足分の机、腰かけ、塗板(黒板)、ミシン、裁縫用机などを搬入した。九日、十日には、吉田にある職業補導所生徒が机、腰かけの修理に来校した。

 二学期にはいって九月六日から、城山館、蔵春閣を使用して二部授業をおこない、九月二十六日からは、残存校舎と城山館、蔵春閣をつかって、いっせいに、八時半からの普通授業を開始した。

 市は緊急市議会をひらき、復旧費として六〇〇万円を計上し、そのうち、二〇万円を焼跡整理に回すことにした。いっぽう、校舎の新築は十一月十三日に地鎮祭をおこない、総工費予算九三八万円で起工した。

 ところが、新校舎の上棟式を翌日にひかえた翌二十四年二月六日午前二時ごろ長野市箱清水城山公園内の長野市所有の蔵春閣(建坪六九三平方メートル)貴賓室付近から出火し、発見がおそかったために、同建物を全焼して隣接する城山館(建坪一二三〇・九平方メートル)に延焼し、同建物も二階建倉庫、はなれ座敷、物置など一部を残して焼失した。四時ごろようやく鎮火、損害見積りは約三〇〇〇万円であった。このため、城山小学校は再び二部授業を実施することになった。

 出火原因について長野署は、火元の貴賓室が宿直からはなれていたこと、また、同室付近には暖房設備などいっさいないこと、焼ける前日の五日には室内工事を中止しており発火の原因になるものがないこと、さらに十二月には淀ヶ橋町内の民家数軒に放火事件があったことなどの点から、放火の疑いが濃厚とみて鋭意捜査を開始したが原因をつきとめることができなかった。

 建物の一部を残しただけで焼失した城山館は、明治十九年に長野市内の有力者十数人によって市民のクラブとして設立、その後同三十年公会堂として市に引きつがれたものであった。また、この二つの建物(蔵春閣・城山館)は二十四年四月から開かれる平和博覧会の会場として城山館を迎賓館に蔵春閣は大会場に使用する計画で、そのための修理工事がすすめられていたときでもあった。

 火災後に、松橋長野市長は「先には城山小学校を焼き、また、今度の事件と引きつづいて公共建物の火災事件を起し申訳ない。早急に常備夜警をおいて今後に備えるつもりだが、平和博覧会にはほかの建築物を利用するから特別大きな支障はないと思う」(『信毎』)と語っている。

 長野市は両建物の焼失にともなう善後策について六日午前一〇時から臨時市会協議会をひらいてつぎのように申しあわせた。①当分の間、平和博覧会場準備のために常備消防を設け、二時間毎に会場付近を巡視させる、②市内緑町に建設予定の消防署は早急に着工する、③迎賓館および大会場に使用する建物は別に物色するが、市長が両建物の復旧につき一両日中に具体策を練ったうえ、緊急に市会を招集する。

 その後、城山館は昭和二十九年に再建され、さらに、四十二年には現城山公民館が建設された。蔵春閣も同四十二年四階建てコンクリート建物として再建され、その四階には公営結婚式場も設けられたり、屋上には音楽ステージを設けるなどして広く市民に利用された。

 昭和二十六年七月十九日午前三時一〇分ごろ長野市城山小学校(校長西山千明)正門北側旧校舎の階下二年三組教室付近から出火、市自動車ポンプ六台、消防隊員約四〇〇人が出動したが、水圧低下のため消火が思うようにならず、同校舎一棟(木造二階建六教室)を全焼して午前四時半鎮火した。幸い無風のため、新講堂、北側校舎などは類焼を免れた。校舎等の損害は約四六二万四五〇〇円であった。


写真60 昭和26年7月19日、城山小学校放火による火災
(『長野城山小学校百年史』より)

 原因については長野市署で調査にあたり、漏電、自然発火の疑いがないことから失火、放火の両面からおこなわれた。その結果、放火であることが判明した。

 同校は前年六月講堂をはじめ、四棟を放火で焼失したことから、それ以来宿直員を二人にして警戒を強めていた。この火災については、同夜消防自動車がかけつけ、ホースをつないだものの水の出が悪くバケツで水をかけるありさまで、ようやく善光寺貯水池から引水して消火するという始末であった。そこで、水道の水圧が低いことにたいしての批判が市議会で出された。

 いっぽう、城山小学校再度の火災につき、長野市は全員協議会をひらいてその善後策を協議、とりあえずあとかたづけ費一〇万円を支出した。また、長野市校長会は早く安定した授業ができるように机三〇〇人分を市内小学校から応援し、県教組、信濃教育会と打ちあわせて県下教職員から復興資金の寄付を募ることにした。信濃教育会ではそれとは別に独自に同校復興援助資金一〇〇〇円を寄付した。

 城山小学校PTAは、校舎再建に際し木造校舎を建てることに反対して、南側に新築中の鉄筋コンクリート校舎(六教室)を北側延長して六教室増築することを要望した。なお、焼失した六教室にはいっていた二年生六学級は長野市内各学校から集められた机を利用して二十日から平常どおり、講堂において、普通授業が開始された。

 市はこの火災にたいし、二十六年十月八日、鉄筋コンクリート二階建六教室の校舎増築のために一三〇〇万円の起債もしくは市税その他一般歳入をあてることを議決した。これによって先に着工していた南校舎六教室にこの新校舎を接続させることになった。この鉄筋新校舎の竣工式は二十六年十月三

十一日におこなわれた(『長野城山学校百年史』)。

 昭和二十二年九月九日午前一時ごろ、上高井郡川田村字関崎(現長野市若穂町)の某家から出火、水利の便が悪かったため、同家の隣接家屋を全焼、さらに連続する七軒八世帯が全焼、一棟を半焼して二時半、ようやく鎮火した。出火原因は不明であるが、火元の某家では大小麦、栗など一〇俵を焼いたほか、類焼者はいずれも家財道具や秋蚕(あきご)を焼いてしまい損害は約五〇万円であった。