軍国主義と国家主義教育の排除

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連合国最高司令官マッカーサーが進駐したのは昭和二十年(一九四五)八月三十日で、日本占領の管理方式を声明し、間接統治・自由主義助長の方針を明らかにした。文部省は九月十五日、平和国家をめざす「新日本建設ノ基本方針」を発表した。長野軍政部が長野市若里の鐘淵紡績株式会社長野工場におかれたのは十一月であった。初代軍政部長はコールソン中佐、ついで憲兵隊長兼務のストラットン少佐、スミス中佐、教育部長はコリンズ大尉、ついでウィリアム・A・ケリー(通訳者香川)、コーラ・リー女史(通訳者村上)であった。呼びだされていく視学などが部長と面接する部屋には、星条旗が壁に掲げられていた。

 県民は経験したことのない外国軍の進駐で、多くの者が心配したのは天皇制国家の国体であった。終戦直後の職員会(会議)で議題となったのは国体護持であり、県視学の指示も「御真影奉護」(『通明小学校百年史』)であった。天皇制の問題は、総司令部の取りあつかいが注目されたが、占領政策上維持がはかられ、二十一年十一月制定の「日本国憲法」で、「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」と規定された。


写真64 文部省が作成した『あたらしい憲法のはなし』

 占領下一年間の県下教育界の動向を『信毎』は総括して、「-信州教育再建の苦紋(悶)-敗戦一周年の足跡を回顧」の論説を掲載した。その冒頭で、敗戦で教育界は「茫然自失なすところを知らない虚脱状態におちいった」と報じている。これは、国民全体の精神状態で、全体主義のもとで国民は根拠のない「必勝の信念」の掛け声を盲信した結末の現象であった。ここでとりあげている一年間の足跡の第一は、同盟休校(穂高農・諏訪農の学校園農産物の処理問題、長野工専・木曽中の校長の学校運営問題)、生徒の出席率の低下(青年学校三〇パーセント)である。第二は年度内二度の異例な教員大異動(後述)の断行、第三は総司令部の指令による軍国主義教育の厳禁、施設(奉安殿の軍装御真影など)・教材(軍事・神道に関するもの)の排除、第四は木曽教員組合の誕生、第五は衆議院議員選挙の教員選挙運動違反事件の波紋、第六は教員適格審査の成否と民主化、そして第七が教育者の研究熱であった。この論説で、信州教育の再建は、教員の適格審査が民主化の成否の鍵をにぎること、教師の研究会が例外なく熱心な教員大衆で埋まり、「明るい将来を暗示する」のは「新しい教育の理念や方法論が真剣に論議されている事実」だとも述べている。

 占領の初期、昭和二十年に総司令部がだした教育改革の四大指令は、二つに大別されると『学制百二十年史』(文部省編)はみている。その第一は、終戦処理と旧体制の清算、第二は、新教育制度の基礎となる法律の制定だという。この四大指令は十月の①日本教育制度に対する管理政策、②教員と教育関係官の調査・除外・認可、ついで十二月の③神道に対する政府の保障・支援・保全・監督と弘布の廃止、④修身・日本歴史・地理の授業停止であった。その実施は、間接統治の方針によって日本側に実施させ、総司令部の出先が監督・助言にあたった。二十一年には米国教育使節団二七人が来日して、日米両国の教育専門委員によって、新しい教育制度案を検討して、日本政府に勧告がおこなわれた。

 長野県は、教職追放の指令の実施に先立って、二十年十二月二十二日校長四八五人の大異動をおこない、一六〇人の退職者を出した。戦争責任にたいして「一億総懺悔(ざんげ)」が唱えられるなかで、教育責任者の自責的な退職であった。退職者は長野県師範学校大正四年(一九一五)以前の卒業生で、人材ぞろいの五年組を残留させたのは、戦後の教育再建に備えるためといわれた。それから三ヵ月後の年度末人事異動では退職者が校長二四人・教員九九八人を加えた。

 総司令部第二の指令である教職追放にかかわる教員の適格審査は、勅令二六三号「教職員ノ除去、就職禁止及復職等ノ件」に基づいて、五月七日の文部省令第一号・同施行規則」によって実施された。長野県は委員一三人(教員代表七・各界代表六)を選んで、二十一年六月二十七日委員会が発足した。書類審査が原則で、あらかじめ県下の各校長から、教職員の記入した調査表が提出された。審査は、委員会で審査するもの、自動的に知事が判定するものの二種に分けて、その審査基準がつぎのように示されている。

別表1(委員会審査)=講演・著述・論文等言論・行動、ナチス・ファシスト政権担当者、占領政策反対者、

         宗教を迫害した官公吏、軍国主義・国家主義の教科書の刊行者・編集者

別表2(知事判定)=GHQの罷免した者、職業軍人、陸海軍勤務者

 審査の状況は、後年発行の『戦後教育の出発-長野県教育審査委員会の記録』(労働代表森本弥三八著・長野工専教授)に報告されている。それによると審査対象一万七五九五人、書類審査で保留となった者と再審査した者の中から、不適格者四二人、自動的排除八七人(全国五万一八一一人中不適格者審査一九六二人、自動二四三三人)であった。各学校では、校長から適格審査委員会に申請書を提出して、各人の適格判定書の交付をうけた。

 当時の長野市内関係者は、保留者八人(うち不適格一、再審査二)であった。審議で特別問題になったのは、後町国民学校関係者、長野市教員組合、勤労動員指導者、教育会幹部であった。後町国民学校は戦時中国粋主義教育で、千葉県東金国民学校とともに評判になり、審査で校長以下六人が追放された。審査会には、軍政部のコリンズ大尉・ケリー教育部長も出席することがあって、ケリーは長野県の不適格者が少ないことに不満を表明し、一般の投書をすすめて『信毎』にも広告された。委員会側は、審査以前に自責的な多数の校長が退職している事実を説明した。全国都道府県と比較して、長野県のパージは決して少なくない。

 第三の指令は、国家神道の解体で、国家と宗教の分離による信教の自由を確保する原則の実施をもとめて、宗教を政治的に利用することを禁止している。この指令を県は、二十一年一月十四日・十月七日、とくに学校の神社参拝や祭式・儀式の慣行を禁止し、「要受領書」の重要文書をもって通達した。とくに留意することとして、伊勢神宮・明治神宮等の遥拝、氏神にたいする団体参拝とその祭日の休業、その他学校における神道行事を禁じ、学校では神棚その他の神道施設を撤去した。県は二月二十一日には「御真影・奉安殿・英霊室又ハ郷土室等ノ神道的象徴除去ニ関スル件」を七月二十九日再度通達している。


写真65 指令によって天皇・皇后の写真は返納し、奉安殿を撤去した

 つづいて軍事的顕彰物の撤去も、二十二年一月十三日「忠霊殿・忠魂碑その他戦没者のための記念碑・銅像等の撤去」を指示している。その撤去が不十分で、県は五月十九日再度通達し、処分をうける校長もあった。占領にあたって武装解除を命じた総司令部は、占領直後学校の兵式訓練や武道の兵器の撤去を命じた。青木島小学校では、二十年十二月五日進駐軍四人が視察に来校して、「兵式の武器・武道具・帯剣二五、指揮刀二本持ち去る」と学校日誌に記している。西条国民学校では、武道具や教員・児童の所持しているものを一括して松代警察署へ提出した。

 第四の指令の三教科の授業停止は、県から二十一年一月二十一日「修身、日本歴史、地理等ノ授業ニ関スル件」が通達された。なお、これに先立つ前年十二月三十一日、総司令部の指令書と授業の即時停止と、教科書および教師用参考書を全部回収する措置命令が通達された。三教科以外の教科書は削除修正箇所が文部省から指示され、県はこれを二十一年二月七日移牒して県下に通達した。削除されたのは軍事・神道教材などで、通達は「別表ニヨリ必ズ該当箇所ヲ切り抜クカアルイハ墨ヲ塗リ、又ハ紙ヲ貼ル等ノ措置ヲナサシメ、原型ヲトドメザル様」にすることを指示し、削除・修正表を配布している。その箇所は国語が一二六(うち全文七五)・算数三二ヵ所であった。地図の掛け図についても、戦前の日本領土や満州国・日本委任統治区域等の記載の処理が不十分で、長野軍政部から厳重な注意があって、県は二十一年六月三日管下に注意し、広範囲で「抹消不可能なものはこれを焼却する」よう、校長が責任をもって検印を押すことを指示している。長野軍政部の管内学校巡視の観察は、予告なしにジープで県内を巡回し、指令の実施状況を検視して注意を与え、問題によっては県へ連絡して、校長・教員の処分かおこなわれた。また、指導監督のために関東地方民事部教育部長ロリン・C・フォックス博士(通訳者後藤)やロバート・B・マルクマナスなどが来県して、視学や指導者と面談している。二代教育部長ケリーは、精力的に巡回して、ジープで木曽の読書(よみかき)小学校の入り口の長い石段を駆けあがった噂などが伝えられた。


写真66 墨でぬりつぶされた教科書 (昭和館所蔵)

 長野市内では教育実習や教育研究校の附属小学校と同中学校を数回視察しており、教育部長リー女史や本部派遣のヤイデー女史が講演をしている。戦時教育で話題の後町国民学校へは初代部長コリンズ大尉が執拗に訪れ、各教室の授業を参観し、唱歌教科書の「冬の夜」の歌詞中「すぎし戦(いくさ)のてがらを語る」の部分の墨塗りの薄いのをとがめ、よく説明しても聞きいれず、校長は県から叱責処分をうけた。また、校長の言動を職員に試問したり、生徒と父母に信頼の厚い一教師の即刻退職をもとめ、年度末男子教員の全員入れかえを要求したりした(『後町教育九十年史』)。