新しい教育制度の発足

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「学制」(明治五年)以来の近代教育制度の大改革となった新学制が、昭和二十二年(一九四七)三月に定められた。教育制度がはじめて法律で定められた画期的な教育基本法、学校教育法、社会教育法、教育委員会法などは、新憲法に基づいて米国教育使節団の提言をとりいれた革新的なものであった。学校教育法の立案の過程で、大日本教育会長野県支部(昭和21・11信濃教育会に復元)は、二十一年十月独自の学制改革案を文部省に進言した。この案は、就学年齢を一年引きさげて、義務教育を一〇年とし、初等学校(七年)・中等学校(三年)・高等学校(三年)・大学(三-四年)とする単線型の学校体系で、教員養成機関を廃止して、大学卒業を教員資格とするものであった。この案を『信毎』は評価して、本県旧来の持論であり、新教育にたいする信州の抱負と熱意を示すものと論じた。

 学校教育法(昭和22・3・31)は六・三・三制で、義務教育を三年延長して九年とした。文部省は新学制への切りかえを三段階とし、新制の小・中学校は昭和二十二年四月発足、高等学校は二十三年、大学は二十四年とした。なかで最も困難が予想されたのは、義務制中学校の新設であった。戦後の疲弊(ひへい)した経済状況下で至難の事業であったが、占領下でもあり、学校教育局長は「新制中学校については、相当の困難はあっても、予定どおり二十二年度より実施する」と決意を表明していた。

 この難事業を民主的にすすめるために、当局は市町村長にたいして新学制実施準備協議会の設置をすすめた。この協議会は、つづいて実施される新しい教育行政制度の教育委員会を予想するものとされていた。県は移命通牒で二十二年三月六日市町村長に、「学制改革に伴う学校設置について」を通達した。そのなかで示した実施要領には、新制中学校の義務制は学年進行でおこない、校舎は独立が理想だが当面小学校併置も可、学級定員は五〇人が標準、男女共学、授業料は無償、教員給は県と国庫が各半額負担、経費にたいする国庫補助金などの方針が述べられている。

 新学制実施準備協議会の設置は、軍政部が積極的で、県は軍政部と協議して政府案の実施要領を修正して、二十二年三月十日市町村長に設置促進を通達した。この協議会は首長の諮問機関で、町村(市は地区)・郡市・県に設置し、町村・地区は委員二四人以内、教員・一般(父兄)代表同数とし、女性を加える。町村協議会から教員・一般代表の二人を郡協議会に送り、地区から同様二人を送って市中央協議会を構成し、郡市代表二人あてで県協議会を構成する仕組みであった。長野県内の設置数は、町村四一〇、郡市二二、県一、合計四三三、委員数は三六六六人であった。小西教育長は「長野県は全国に魁(さきが)けて設置され、注目された」と『星条旗の降りるまで』のなかでのべている。

 長野市は市内一二地区(一一校区と師範附属校区)の地区協議会を設け、三月十三日から十八日の間に発足し、各地区代表二人で中央協議会を構成して、三月二十日に初会議を開いた。委員長宮下友雄(商)・代理竹内菊雄(後町国民学校長)で、県委員には竹内菊雄と渡辺仁兵衛(旅館業)が選ばれた。竹内手びかえの協議会記録(市教育会蔵)があって、県と市の協議内容が記録されている。それによると、市の会議は主に新制中学校、県は新制高校を主として、学校の配置と通学区域・学級数・教員数・施設・備品にわたっている。市協議会の中心の問題は、独立した新制中学校の創設と市立中等学校の新制高校への切りかえであった。

 昭和二十二年四月一日に発足したのは、小学校八校・中学校三校で、小学校は城山・加茂・山王・鍋屋田・芹田・三輪・吉田・古牧で、中学校は柳町・後町・川端であった。中学校を独立設置として、小・中一一校には旧国民学校校舎を配当し、国立師範男子部附属小・中学校二校を加えて、市内の児童生徒が入学したのである。しかし、直ちに小学校一校の新設と、中学校は義務制の学年進行で生徒が急増するので、さらに、二校増設が必要であった。六月三日市の夏目教育課長は市の教育会・校長会・教職員組合にたいして「新設すべき小学校・新制中学校の位置及びその規模等適当なる具体案」を諮問したのである。これにたいする答申とみられる二案が城山小学校文書に記録されている。教育会案とみられる「新学制改革案」は、市内を一〇学区として各学区に小・中各一校を設け、二学区一中学も可とする案で、各校の学級数と発足四年間の教室の過不足を試算し、教員組合案とみられる「学制改革に関する対策」は、小学校九校・中学校を五校案で、児童・生徒数・学級数と通学区別人数が試算されている。


写真67 学制改革による新制中学校建設関係帳簿

 二十三年十一月再び二十四年度の学校配置が検討されたが、この時問題となったのは、発足した中学校を小学校に転換する案であった。対象となった川端中学校が市長によって後町中学校に変更される諮問となり、これにたいして後町中学校のPTAは二十三年十二月十九日に臨時総会を開いて反対を決議し、市は問題の決着を一年間延期することとした。

 市は資材不足とインフレの財政難から、二十四年度の学級増加にたいして、施設の工夫を現場に要請し、準備協議会は校舎と通学路の改良を市長に要望した。その条件はつぎのとおりであった。

 1、校舎について

①西部地区に一八から二四学級編成の中学校を速やかに新設すること、②とりあえず附属中学校に六学級を収容してもらうこと、③東部中学校に一五学級収容の校舎を即時建設すること、④南部中学校の第三期工事を新情勢に即し二十五年度中に完成すること、⑤東部中学校を近い将来に二四学級編成に拡張すること。

 2、通学路について

①北中地区から南部地区への道路を即時新設すること、②西和田地区東部中学校への道路を速やかに新設すること、③錦町・七瀬通りを拡張すること。(『長野市教育会 昭和二十四年度文書綴』)

 中学校の建築は二十四・二十五年にすすめられ、二十四年度東部中学校(字桐原-初年度吉田小併置)、二十五年度西部中学校(大字西長野)と南部中学校(字栗田)を開校した。このとき、西部中学校へ後町中学校の生徒を入れて、後町小学校が復活再発足したのである。

 校舎の新築は、西部中学校は県立長野女子商業学校跡(廃校)、南部中学校は市立中学校跡(火災)であった。三中学校の同時建設は市の財政上起債と借入れに頼るよりほかなく、南部中学校は建築費一三五五万円のうち、起債六三八万円、政府借入れ三〇〇万円で、借入れには市民の六・三制定額郵便貯金の備蓄が条件で、市は二万世帯一戸一五〇円以上の貯金加入を呼びかけた(『長野市報』)。

 市内の生徒が入学する附属中学校(長野師範男子部)は、初年度一・二学年一学級で、附属国民学校初等科卒業の三学級・高等科二学級のうち、三学級分は市内中学校へ流出することになり、附属中学校の学級増を文部省へ申請したが、受けいれられず市が困惑することとなり、また、附属中学校も各学年一学級では教生を受けいれることができない。市協議会は師範学校に教室の余裕があるので、後町中学校の一部の学級を委託のかたちで附属中学校へ編入し、県は教員の派遣を承認し、軍政部はこれを良策と認め、結局文部省は黙認して実施された。初年度附属中学校におかれた国費外学級は一学年二学級・三学年一学級で、県教員は三人であった。のち、附属中学校は国費九学級・国費外九学級に達した時期もあったが、国費外学級が他大学とともに問題化して、「やみ学級」として国から検査上解消を迫られた。長野・松本両附属中学校は昭和三十七年(一九六二)度末大蔵省から解消の指示で苦境におちいり、他大学では廃校となった附属もあったが、信州大学では、翌年学級増設の予算を要求し、教育実習上必要な理由書を提出して、三十九年度から附属長野中学校は国費学級各学年三学級にたいして二学級の増加が認められて、予算外学級の問題は解決し、その後、さらに一学級増設されて全一八学級の全国最大規模の編制となった。

 新学制発足期の長野市内小・中学校の規模を、学級数で示すと表33のようである。現市域の町村立新制小・中学校の発足期の学校規模を学級数で示すと、表34のとおりであった。これによれば、大部分の新制中学は、小学校と校地・校舎を分有し、特別教室と体操場・校庭運動場・学校園などを共用し、時間割りで運営されていた。普通教室が不足して、体操場を間仕切りして教室としたところもあって、教室が狭く人数が超過して「すしづめ学級」の新用語も生まれた。中学校の理想とする独立校舎を建設するために、近隣の町村が学校組合を設けるところもあった。その後、昭和二十九年の市町村合併で中学校校舎の独立化が急速にすすめられた。


表33 市立新制小中学校発足期の学級数


表34 現市域町村立新制小中学校発足期の学級数

 新学制の成否を左右するといわれた新制中学校の施設の充実は急を要し、文部省は公立中学校建築国庫補助をきめ、県は昭和二十三年(一九四八)七月五日教育部長から市町村長に「新制中学校の市町村立学校組合による設立促進」について通達した。更級郡中津村と御厨村は、組合立昭和小学校を昭和二年(一九二七)から設けていたが、中学校については二十三年一月川中島村ほか二ヵ村(今井・御厨)組合による川中島中学校の建設をくわだてた。このとき、文部省設計のモデル・スクール北佐久郡軽井沢中学校が建築中で、組合はこれを視察し、同校と同様に文部省工作局の指導を受けて米国式プラツーンシステムの校舎を建築し、二十四年九月竣工した。また、長野市西部中学校も、アメリカ視察から帰国した松橋市長の方針で、鉄筋コンクリートの校舎とし、スチーム暖房・水洗便所のプラツーン形式の最も新しい施設を備えて、二十六年二月落成した。川中島中学校とともに参観者の応接にいとまがなかったという。


写真68 昭和24年建築の川中島中学校はモデルスクールとして文部大臣から優良施設校表彰を受けた (『克己心』より)

 小・中学校の組織と運営について、問題となったのは教職員の人事で、義務制の新制中学校がいっせいに創設されるため、校長・教頭が倍増し、教職員の急増で職員組織が難航した。旧制中学校や外地引揚者などからも採用したが、有資格者で需要を満たすことができず、質的低下の後遺症を残すこととなった。カリキュラムやガイダンス、視聴覚教育など新教育を理解するための、講習会・研究会、新しい形式の現職教育の研究集会が開催された。さらに教員免許更新の認定講習がおこなわれて、教師たちは多忙をきわめた。

 児童・生徒は食糧難で、開墾・増産の勤労をつづけ、栄養失調にたいして栄養給食のみそ汁・ユニセフ物資のミルク給食を開始し、しだいに完全給食に移行する業務が始まった。また、物資の欠乏で学用品が不足し、戦時統制経済当時に設立された長野県文房具配給統制会社からクレヨン・かばん・学童服(男・女)・運動靴などが配給され、衛生ではツベルクリン注射・しらみの駆除・海人草による回虫駆除がおこなわれた。

 新教育の放送・映画等の視聴覚教育の設備・プールの建設などの事業があり、軍政部の指導によるPTAの結成や週五日制の実施などの新しい体制が導入された。週五日制の授業を受ける児童・生徒の権利をまもり、授業を完全に実施するための方策で、学校行事や教師の研修を土曜日に実施して、児童生徒の自治的社会的訓練の機会をねらって、昭和二十三年四月ころから始めたが、社会の受けいれ態勢などの事情で二十七年度をもって一斉に廃止した。なお、夏時刻(サマータイム)法も二十三年四月から施行されたが、長くはつづかなかった。

 旧制市立中等学校は市内に男女各一校あって、準備協議会は市立中学を廃止して、一二学級の生徒を県立長野中学への編入を申しいれて実現することになった。松橋市長は市立の「特色ある高等学校を長野市にもちたい」(「実施準備協議会竹内控」)という意見で、市立実科高等女学校を新制高等学校とすることになった。

 新制高等学校は単位制で総合を原則とし、三年課程・全日制・男女共学を基本としていた。そして、全日制のほかに勤労青年のために定時制四年の課程を設けて、中心校を定め分校を市町村におく方式をとり、また、通信制も設けられた。定時制を併設した中心校は、市内で吉田高等学校・長野西高等学校で、長野西高校には通信制もおかれた。

 新制への切りかえは、小・中学校が二十二年、高校二十三年、大学二十四年であったが、この三年間に長野市内に設置された公立・国立学校は表35のとおりであった。高校・大学も新制への移行は学年進行で、完成までのあいだ旧制学年が残存し、高校在学の義務年齢の生徒のために併設中学校が置かれた。昭和二十四年には長年県民待望の信州大学が国立で創設され、既存の国立高等専門学校を学部として統合し、長野市には教育学部(旧長野師範)と工学部(旧長野工専)が置かれた。二十五年には長野県女子専門学校が長野県短期大学(国語・英語・家政・被服専攻の四コース)となり、同校併設の県立長野第二高等女学校は二十三年長野東高等学校に切りかえた後、二十五年に長野西高校へ合併している。なお、長野農業高等学校(前上水内東部農校)が吉田高等学校となった。


表35 市内発足新学制学校数 (昭和22~24年)

 現市域の高校は篠ノ井町の県立更級農業高等学校(更級農)と県立篠ノ井高等学校(旧篠ノ井高女)、組合立篠ノ井被服高等学校(旧篠ノ井第二高女)が発足し、松代町には県立松代高等学校(旧組合立松代高女・町立松代商・松代女子商)が設けられた。