教育委員会の発足

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教育行政の新制度は、米国教育使節団報告書の提言と諸外国の制度を参考として、教育委員会の法案が作成され、昭和二十三年(一九四八)六月の国会で成立し、法律一七〇号となった。この改革は、教育行政の民主化と地方分権と自主性の確保をねらったもので、公選による合議制(個人に権限なし)の画期的なものであった。教育委員会の組織は、県六人・市町村四人の公選に、それぞれ議会選出一人を加えて構成され、委員の任期は四年で二年ごとに半数を交替し、初回は当選者のうち下位二人が二年とされた。互選で正副委員長を置き、委員は「素人(しろうと)主義」を原則とし、事務局の教育長は専門家をあてる方針であった。


写真69 教育委員選挙についての県の啓発用ちらし(部分)

 初回の選挙は、昭和二十三年十月五日におこなわれ、都道府県と五大市、全国五七市町村に十一月一日教育委員会が設けられた。長野県では、事前に軍政部の教育官ケリーが、県下各地で啓蒙演説をたどたどしい日本語でおこなった。長水地方事務所長は選挙前九月四日付で、各村PTA会長あてに「長野軍政部のメッセージ」を伝えて、教育委員会の趣旨の徹底を呼びかけた。メッセージはウィリアム・A・ケリーの署名で、教育委員会法と十月十五日の選挙について、県民は「重大な責任」をもっており、「利己的な利害関係の人を代表としないよう」訴えて、「長野県の教育の将来を真剣に」考える「有能な人を選挙する必要を知らせることがPTAの仕事」だと強調し、その会合の開催を勧奨している。そして、これが「政治的活動」や「選挙運動」になってはならないと警告、「長野県の教育を立派なものにし、皆さんの子供の福祉を確保するよう努力」を要請している。このメッセージで地方事務所は、教育委員会法の「講座・討議・座談会」等を効果的に実施することをもとめている。選挙の結果県の初代教育委員長は松島鑑が就任し、教育長は教育部長の小西謙が任命された。全市町村の選挙は、予定の昭和二十五年を延期して県委員の二回目と同時に二十七年十月一日に、全国一斉に実施された。


写真70 教育委員の選挙についての長野軍政部ウィリアム・A・ケリーのメッセージ

 昭和二十七年十月一日、長野市教育委員の選挙がおこなわれた。選挙前九月十五日の『長野市報』は、教育委員会の制度の趣旨をわかりやすく的確に「民意を反映し、地方の実情に即する」使命をもつといい、「高い人格」と「広い識見」をもつ人を選ぶようによびかけている。立候補者は五人で、当選者は青木富巳雄・神山巍国・篠原辰弥・甘利恒雄の四人、議会選出は宮川啓三で、互選して委員長に篠原辰弥が就任した。

 市町村教育委員会は、昭和二十七年十一月一日に発足し、この日文部省事務次官と自治省次長は連名で「市町村教育委員会設置にともなう財源処置について」都道府県に通達した。市町村教育委員会の設置による地方の経費負担にたいして、その財源を地方財政平衡交付金で措置する通知であるが、ここに地方教育委員会設置の原則が示されている。①市町村教育委員会は各市町村に設置すること、②教育長は大きい町は専任とし、その他は兼任とすること、教育長の給与は助役の給与と同程度とされ、③指導主事は市町村におかず、県の指導主事の援助を受けることなどで、財政上事務局の構成の骨組みが示唆されている。なお、この通達で、公選委員の報酬は町村会議員と同程度で、議会選出委員の報酬は五〇パーセントと見こまれ、また、市町村教育委員会の経費の補助と、県教育委員会は指導主事を派遣するなど、市町村教育委員会の設置にともなう県費にたいする補助も交付金に加えられている。

 長野市教育委員会が発足する以前に新学制の実施を担当したのは、市長に直属する「教育課」であった。昭和二十二年は市長松橋久左衛門のもとに三課(総務・経済・教育)を設け教育課長は視学夏目孔夫で、ついで二十七年十一月教育長任命前の教育課長兼視学は竹内菊雄であった。教育委員選挙後、長野市は十一月一日に委員会発足の式典をあげ、事務局は二課(庶務・学務)一館(公民館)で、教育長は竹内菊雄がひきつづいて就任している。現市域町村部の教育行政事務は、担当者として学事係あるいは助役兼務とした町村が多かった。二十七年十一月教育委員会となって、発足当初は専任教育長をおかない町村などでは助役兼務が多くみられ、教育行政事務を役場吏員が兼務する例がみられた。教育委員と教育長の給与について、上水内郡では二十八年六月各町村の調査をおこなった。その報告書から現市域分の教育委員会の待遇を抽出すると表36のようになる。


表36 上水内郡教育委員会給与表(昭和28年)

 これによると上水内郡各村(現市域)は、専任教育長を最初から設置したのは、大豆島・柳原・長沼・七二会・安茂里村である。教育委員の公選制が任命制に改められたのが、三十一年十月一日施行の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」であった。選挙による教育委員会制度を廃止して、首長の任命によることとしたのは、教育行政と一般行政との調和をすすめ、教育の政治的中立、教育行政の安定の確保のためといっている。教育委員の選挙は一回だけでおわり、一般行政から独立した教育行政の画期的な改革は後退せざるを得なくなった。