二・一スト(ゼネラルストライキ)への動機は、すでに昭和二十一年(一九四六)六月の「社会秩序保持」についての政府声明によって、産業全体あるいは数個の産業が提携して争議手段として計画されていたものであった。しかもこの労働運動は特色として、しだいに政治的色彩をおびて吉田内閣の打倒が目標にかかげられるようになった。そして同年十月ころからは、いわゆる「十月攻勢」と呼ばれる大規模な闘争に発展した。このため、政府の低賃金政策や財政政策にたいして、労働者の要求が完全に対立した。教員・官公吏・国鉄・全逓等による、いわゆる広範な官公庁労働者の個々の待遇改善の要求が統一された闘争に組織された。さらに、これを中核とする全日本産業別労働組合会議(産別)・日本労働組合総同盟(総同盟)・日本労働組合会議(日労)をはじめとして、その他ほとんど全部の労働組合を網羅(もうら)した全国労働組合共同闘争委員会にまで発展した。
同年十一月二十六日官公庁関係の最低賃金制確立・越冬資金確立等の要求が全部出そろい、これを一つの共同闘争に結集することとなり、同日全官公・全公連・国鉄・全逓・全教連の各代表が正式に全官公庁共同闘争委員会を設置し闘争の統一をはかることになった。同年十二月十八日中央労働委員会の調停案を拒否した国鉄・全逓を中心として全官公庁の闘争はいっそう激化し、スト態勢が整えられていった。
二十二年一月九日の拡大共同闘争委員会で、今までばらばらであった各組合の賃金体系の統一を決定し、最低賃金制の要求案を一律に「一六歳六五〇円、十二月より実施」に統一した。そして一月十一日全官公共闘のスト態勢確立大会を宮場前広場で開催し「二月一日を期してのゼネスト突入」を確認、同日政府にたいし共同要求項目の最低基本給の確立・首相年頭の辞で労組への「ふていの輩(やから)」発言取消しおよび陳謝など計一三項目が提出された。しかし、これにたいする政府の回答はいずれも「考究中」という抽象的なもので労組側は全面的に不満を表明し、スト突入宣言への準備を急いだ。
これらの過程のなかで、県内一般市民や児童の保護者などは、とくに教員のストライキには関心が集まり、大方は賛成であったが、なかには反対の動きもでていた。以下二十一年十一月九日付けの『信毎』報道記事から、それぞれ意見の要点をあげるとつぎのようである。
①城山国民学校六年生=先生たちの待遇について六〇〇円の要求はとても安すぎると思った。それなのになぜ文部大臣はいいと言わないのか「ふしぎだなぁ」とみんなが言っている。先生は(今の)三〇〇円ではやっていけないと言われたがその通りだ。もしゼネストになったら夏休みのように五、六人がかたまって勉強をつづけ、いつまでも先生を応援する。
②師範附属校父兄会役員=最低六〇〇円の要求は当然、子を持つ親としてあくまで教員の味方だから、本県のストが波及してきたときは支持する。
③長野県学務課長=六〇〇円確保の要求は正当と考える。県としてはこれにたいして何らの方策も講じられないのは遺憾であるが、しかし、教育の性格からゼネストの良否は相当考慮する必要がある。
④長野市教組執行委員=労組の中央では、政府の命令する教育は放棄するが子どもたちは放棄しないと言っている。この趣旨には賛成するが、実際問題として可能か否かは疑問だ。農村などでよく「先生も労働者ですかね」といわれるが、このような封建的な思想を啓蒙することが先決問題だ。まだ教組未設置郡もたくさんあることだから全県的組合を結成することが急務だ。
⑤長中(現長野高校)校長=教員が労働者の立場をとることは一向に差しつかえないことであるから、理論的には争議としてゼネストもよいことになる。しかし、その場合子どもにかわいそうでない方法をとることがたいせつである。
⑥県教組の動き=既設の一市六郡教組連絡会の主催で、十一月十日松本市立高女で県下教組運動の第二回連絡会が開かれ、全県ないし全国的運動にたいする態度を決定する。すでに長野市教組の結成によって県下の教組運動はようやく軌道にのってきたが、さらに、未設置の各郡にたいし呼びかけ、現在全国の注視を集めている。
このように二・一スト問題をかかえて、県下各郡の教組組織は一気にすすみ、同年十二月二十六日には県教員組合結成大会が長野市鍋屋田国民学校で開かれた。この大会には北佐久を除く県下一八組合一万四〇〇〇人から選ばれた代議員二九六人と組合員など約七〇〇人が参集した。まず、役員選挙のあと、三村正文組合長が「全県教組の統一は信州教育建設の歴史的第一歩であり、強固なる団結こそ民主教育確立の基礎である」と挨拶をのべ、協議では絶対多数で中央への要求貫徹と「スト決行」支持が申しあわされた。
二十二年一月十八日全官公庁拡大闘争委員会が運輸省で開かれ、ゼネスト突入共同寡言を発表した。その要旨は「われら二六〇万の全官公労働者は、二月一日午前零時を期して全国一斉にゼネストに突入し、全要求の貫徹するまで断固闘うことを宣言する。なお、二月一日以前に弾圧を受けた場合は自動的にゼネストに突入する」というものであった。
長野市城山国民学校教職員組合は一月二十三日「父兄」あてに半紙一枚のプリントで、教員ストライキへの理解と支援の依頼文を配布、その文末には箇条書きでつぎのように記されている。
①事態がこのまま推進致します場合は、つぎのような事になるかも知れませんからあらかじめ御了承下さい。
一月二十五日ごろから準備ストに入る。午前三時間授業にて放課
二月一日、スト決行、授業停止
尚、右の事態中も児童は充分学習できるよう用意いたします。
②本日から各受持ちが分担で家庭訪問を致しまして、右のお願いについてお話いたすことになって居りますからおふくみおき下さい。
このように進行する情勢のなかで、県下にはとくに教員のストライキについて、反対や授業対策などつぎのような動きがみられた。
①長野市を中心とする北信一市数郡の青年約四〇〇人で組織する北信青年同盟は、二・一ゼネストに反対すると宣言を発表した。
②松本市教組はスト不参加で、それにたいし、松本市会協議会は同情、感謝の意を表明するとともに、政府による教職員の待遇改善とその要請を決定した。
③篠ノ井町では、町文化協会を中心に教育振興会を結成して、教員ストと同時に学校を管理し、町の児童を学校から一日も離さず振興会に属する元教員適格者をもって授業継続方針を決定し、これを更級郡町村長会へ緊急動議として提出した。
④その他、北佐久教組が反対、また小県和・木曽大桑・長野附属の各国民学校なども反対を表明した。
一部に反対の動きがあっても、全体としてはここまで盛りあがったスト計画であったが、一月三十一日午後三時、総司令部は渉外局発表で「二・一スト禁止」を通告した。この通告より先、一月二十二日連合国軍司令部経済科学局長マーカット代将から各組合代表にたいし、スト中止について非公式勧告がおこなわれていた。三十日、三十一日と引きつづき総司令部当局者と各単位組合闘争委員長の間に重要懇談会がおこなわれたがまとまらず、ついにマッカーサー元帥の正式声明となった。これによりストは中止され、さらに、全官公共同闘争委員会および全国労組共同闘争委員会も解散して、歴史的大ゼネスト計画は未完の幕を閉じた。
長野市教職員組合は、スト中止後の二月六日闘争本部速報で「教組運動の新段階」の見出しで「闘争は最早、県段階闘争から郡段階へ、さらに学校へ各個人へと進みつつある」として、今後は、より積極的に父母・村・青年団・労農・市民・中小工業者等へ乗りだして啓蒙するとともに、要求貫徹の運動を展開する必要を記している。