新教育課程と実験学校・教育研究

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「学校教育法」の公布により、昭和二十二年(一九四七)四月一日からの新学制の発足による新しい教育課程は、学校教育法施行規則に定められ、小学校は七科目と教科以外の活動で、社会科と教科以外の活動が新設され、中学校は必修教科八科目と選択教科に分け、特別教育活動が加えられた(表37)。ここに新教科の社会科が誕生し、特別教育活動(ホームルーム・生徒会・クラブ活動)が登場する大改正で、一一年後の三十三年の四領域(教科・道徳・特別活動・学校行事)への改正までつづいた。


表37 義務制の教育課程

 旧教則から新しい教育課程への改革で最大の転換は、画一的なカリキュラム(教育課程)から地域に即した学校カリキュラムの編成への改正であった。旧制では国定の教則と教科書に従って、各学校は教授細目を作成して教授計画をたてていたが、教育課程の編成権を地域へおろして画一化をさけている。さらに一つの大きな改革は、教科以外の教育活動の価値を重視して、教科課程を「教育課程」に改めて、カリキュラムの領域を拡大したことである。また、教育方法を児童中心とし、視聴覚的方法、学校図書館の利用を加えている。新教育は、このような学習指導だけでなく、道徳教育その他生徒指導のために、心理学に基づくガイダンスを導入している。


写真73 若槻小学校の「教育課程試案」 (長野市教育会所蔵)

 新学制が始まった昭和二十二年・二十三年ころ、新しくおこったのはカリキュラム改造運動であった。旧来の教科書による系統学習から、生活に基づいて「為すことによって学ぶ」経験単元へ、これを具現する地域カリキュラムの作成が、アメリカのカリフォルニアプラン、バージニアプラン、サンタバーバラプランなどを参考にしてすすめられた。長野県内では、諏訪・西筑摩・下伊那・北佐久など郡の資料単元の基礎調査がおこなわれ、いっぽう、自校のカリキュラム作成に着手する学校もあった。のちに信毎教育技術賞を受賞(昭和二十九年)した若槻小学校の「地域に即した教育課程の構成研究」もその一つである。これは、社会科を中心とした地域カリキュラムで、東京教育大学馬場四郎助教授の指導によるものであった。全国的に社会科を中心としたコーア・カリキュラムに注目が集まり、総合学習をめざす動きがおこった。


写真74 長野市中学校社会科カリキュラム (長野市教育会所蔵)

 地方分権による教育委員会法に基づいて昭和二十三年十月、指導助言にあたる指導主事がおかれることになった。文部省・CIE主催で、教育長・指導主事養成の教育指導者講習(IFEL)を開催し、第一回講習が二十三年十月五日から一二週間、第二回が二十四年一月から同様に開催された。

この二回の講習がおわった二十四年度から、教育委員会事務局が発足した。そして、はじめての指導課(長野県は教学指導課)が事務局に設けられた。学校教育法施行規則に、小・中・高等学校の教育課程は「学習指導要領の基準による」と定めて、文部省は二十二年三月十日に『学習指導要領一般編(試案)』を発行し、以後、つづいて教科編の『小学校学習指導要領(試案)』『中学校高等学校学習指導要領(試案)』を、それぞれ教科別に発行した。「試案」としたのは、地方で作成する学習指導要領の参考資料だと文部省は説明している。学習指導要領は、アメリカのコース・オブ・スタディ(COS)に範をとったもので、学校カリキュラム作成の基準と資料を提供するものとされていた。教学指導課は、県内の学校が自校のカリキュラムを模索するなかで、県版の学習指導要領を急いで編集しなければならなかった。

 県内の学校カリキュラムの基準案を作成するため、信濃教育会教育研究所も二十三年から長野県基準カリキュラムの作成にとりかかり、県教育委員会教学指導課は実験学校の設置を計画して、研究所作成のカリキュラムを実験試案として、実験学校で実践し評価して、県学習指導要領作成の資料とすることを計画した。また、実験学校は新教育の方法上の諸問題について、学校独自の研究テーマを選んで実践的に研究して、三年間の研究成果を発表公開することとした。昭和二十四年九月、最初に指定した実験学校は四〇校(表38)で、幼稚園から高校まで、小・中学校は各郡市から地域類型を勘案し、高等学校は各地区から、課程別・性別を考慮して選ばれている。現長野市域で指定された実験学校が表39である。実験学校はのち「研究指定校」と改称して継続され、文部省・団体の指定校も置かれた。


表38 長野県実験学校指定校


表39 初回指定の実験学校 (昭和24~26年)

 県教育委員会は、昭和二十五年長野県学習指導要領並びに教育課程審議会(一六人)を設けて、二十八年県版の長野県小学校指導要領と中学校指導要領を教科別に発行した。その直後、学習指導要領は文部省だけが作成することに法改正がおこなわれ、以後、長野県版は「指導書」に改められた。

 新学制初期の教育研究は、新教育への転換のために啓蒙的な内容が多く、米国教育使節団の来日、アイフェル(IFEL)の開催を通じて、アメリカの研究資料が多用された。カリキュラムとガイダンスを主流として、視聴覚教育・学校図書館の利用の研究などがおこなわれた。学習指導は教科書中心の画一的一斉的な取りあつかいから、児童中心の自主的な学習指導、個人差に応じた指導、新しい評価の方法も研究された。

 当時、教科別に問題となっていたことや生徒指導の問題が『長野県教育年報 昭和二十六年度』にくわしく報告され、現長野市域の学校史もそれぞれ自校の実情を紹介している。教育改革は教師の改造が根本的に必要で、教員の再教育・現職教育が活発におこなわれ、教員免許状再交付の免許法認定講習や研究集会が大きな推進力となった。