PTAの発足と学校給食

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PTA(父母と先生の会)は、昭和二十一年(一九四六)三月来日した第一次アメリカ教育使節団が、報告書「初等及び中等学校の教育行政」の中で、「児童・生徒の福利を増進し、教育上の計画を改善するために、両親と教師との団体組織の助成」を提起したことから始まった。同年十月にはCIE(アメリカ占領軍の民間情報教育局)から文部省に、PTAをつくるように勧告が出された。CIEではPTAについて解説する絵解き資料をつくって公開した。そこには、①父母と先生が知り合いになり、先生の教育方針を理解し、たがいに親しくなって、子どもたちの幸福をはかる、②(「父母と先生の会」では、日を定めて)専門家を招いて、衛生や子どもの心理や新しい教育法など、有益な話をきく。そのあと、みんなで話しあう、③子どもの病気を早く見つけることを学ぶ、④学校衛生、学校給食など子どものためになる仕事をやるように、市町村にお願いする、⑤子どもの演芸会をもよおし、入場券の売り上げで新しい本を買う資金にする、⑥学校給食は、お母さん方が交代で温かいご飯や汁をつくる、⑦いつも心地よい校舎にするため、材料を買って父母や先生が労力を提供する、⑧父母と先生の会は、よい学校を育て、物わかりのよい父母を育て、楽しい希望をもつ子どもを育てる、などと説いている。


写真76 長野市PTA連合会旗 (『長野市PTAの歩み』より)

 その後の改革協議のなかで、学校父兄会の指導についても検討され、二十二年三月には「父母と先生の会」-教育民主化への手引き-の通達が文部省から出された。そこでは、子どもたちが正しく健やかに育つためには、家庭・学校・社会が教育の責任を分けあい、力を合わせて努力することの大切さを説き、会の作り方・運営・経費の捻出法・会の有用性などをのべている。二十二年四月には、会の結成ならびに再編成を奨励し、教育の問題を考究するようにもとめる指令が、極東委員会から出された。さらに、五~七月にかけては、全国九二ヵ所で開かれた社会教育研究大会で、PTA結成の機運が高まり、多くのPTAの設立がみられた。

 長野県でも、二十二年三月の「手引き」が出されて以来、長野軍政部教育担当官ウィリアム・ケリーやリー女史が、校長会や視察に訪れた各学校でPTA結成の強力な指導・助言をおこなった。また、六月三十日~七月三日には長野市、七月七日~十日には諏訪市で、長野県社会教育研究大会が開かれた。市町村長・学校長・公民館・婦人会・青年団関係者や父兄会代表者も参加したこの会では、父母と先生の会についても主要な問題として取りあげられた。そこでは、①児童の正しい育成のために、家庭教育と学校教育とが融合提携すること、②父母・教師は、一つの団体組織をもって会合を開き、相互理解と協力を深め、教養の向上をはかること、③児童の幸福を念願する父母と教師が、平等な立場でたがいに協力する民主的な組織を結成すること、などがのべられている。この会は、ケリー教育官・文部省・県社会教育課が指導にあたり、PTA結成機運をもりあげた。十月には県教育部長名で「父母と先生の会」(PTA)結成をすすめる県報が出された。その一〇日ほどあとでの調査によると、県下では長野市四、埴科郡九、更級郡五、上高井郡三など、合計一二四のPTAの結成がみられた。二十三年四月では小・中・高校九四六校中七九一校で結成され、十二月には全県で結成されている。

 長野市域の当初のPTAの結成の経過を、『長野市PTA五十年の歩み』はつぎの四つに分類している。

 ①戦前からあった父兄会や母の会を発展的に解散をして、PTAに切りかえていったもの。

 ②戦後、新たに父兄会・保護者会・父兄母姉会を結成し、これをPTAに切りかえて設立したもの。

 ③全村で教育振興会・学校後援会をつくり、後にPTAに移行したもの。

 ④戦後新しくPTAを結成したもの。


写真77 長野市のPTAの歩みを記した2冊の記録誌

 これを、各学校史誌などの記述から考察してみると、①は朝陽、②は後町・城山・鍋屋田・加茂・山王・三輪・古牧・大豆島・柳原・川中島・松代・清野の各小学校や柳町中学校などが当てはまり、③は浅川・共和・更府の各小学校が、④は戦後発足した中学校の多くが該当する。

 このようなPTAに類似したものには、日本でもすでに明治時代から父兄懇話会・保護者会などとして開催されている。父兄を集め、学校と家庭の連絡を密にし、毎月定期的に開く(真島小学校)と記され、①授業参観、②受持ちとの懇談、③教育に関する講話、④運動会・学芸会などの学校行事の参観など(東条小学校)がおこなわれ、学校教育の理解や学校と家庭との連携もはかられていた。しかし、父母と先生が平等な立場でなかったことから、学校の後援会的性格が強かったといわれている。そのような組織が以前からあったので、父兄会・保護者会と先生と父母の会・PTAとのちがいが、よく伝わっていなかったようである。『信毎』では、城山小学校のPTA結成に向けた活動を、「同校の構想によると、父兄会との最も大きな違いは、新しく組織ができて、教育について学校側と少なくとも月に一回は話し合う機会をつくり、また、社会の諸団体と交渉しようという点にある。たとえば、校外指導委員会では、最近のように映画などの影響から学童の不良化か目立ってくれば、委員が映画を見て、児童に悪影響を及ぼすものは、業者と協定し、児童には絶対見せないように徹底的に働いたりする」と紹介している。

 また、各校のPTA会則については、その目的を「学校の教育事業に協力し児童教育振展の実をあげるとともに父母兄姉保護者相互の親睦啓発をはかる」(城山小学校二十四年度)、「①家庭、学校及び社会に於ける児童の幸福をいっそう積極的にすすめる、②児童の教育について家庭と学校とが一体となり、理解協力し得る機会を多くもつ、③児童、その家族、教師及び社会の人々の生活教養を高める、④社会の教育的良心を深め、児童の生活環境を整える」(『信州大学長野師範学校長野附属小学校二十五年』)をあげ、ここでは「啓発・教養」などが加わり、単なる学校後援会的団体からの脱皮が意図されている。また、目的達成のための部として「①会計、②厚生(保健衛生、給食関係)、③施設、④生活(校内外における児童の善導)、⑤教養」(城山小学校)、「①庶務、②連絡、③施設、④厚生、⑤校外指導、⑥修養、⑦交渉、⑧経理」(松代小学校)、などが置かれて事業をすすめるようになってきている。

 発足当初のPTAでは、戦後の復興期という社会情勢から、戦前の父兄会のように、荒廃した教育環境やとぼしい教育財政の物質的補完の活動が多かった。新聞紙上には「約四千点の珍品、山王小のバザー」、「PTAに邪道の非難、長野市だけで寄付百万円」とか、「半世紀のアカ落とす朝陽小学校PTAが天井洗い」、「学校守ろう、山王校お母さんたちが夜警、防火演習」など、学校を支援する活動の見出しがみられた。また、鍋屋田小学校PTAが、後町中学校を小学校に復元することをもとめる決議書を松橋市長に提出(二十四年十二月)、往生地地区PTAが加茂小学校への通学区変更に反対して集団登校拒否(二十五年四月)、市PTA連合会が市立高校の募集定員の増加を市長に要望(二十六年十月)など、外部に働きかける運動もみられた。

 いっぽう、戦後の食糧事情の混乱や窮乏から、児童生徒の食糧の確保と栄養状態の改善が緊急課題となっていた。二十年末には、東福寺・通明・城山の三小学校では、戦前もおこなっていた冬期間のみそ汁給食を始めている。二十一年十二月の「学校給食実施の普及奨励について」の通牒が、文部・厚生・農林の三省次官名で出されたことにより、二十一、二年度になると、冬期間のみそ汁給食の復活校がふえている。西条・大豆島・朝陽・川中島・通明・西寺尾の各学校では、冬期間二〇から四九日間実施されている。二十五年度の大豆島小・中学校では、一人当たり一日野菜二〇匁(約七〇グラム)・みそ七匁・調味料代一円でつくっている。献立は、つぎのようであった。

(月)油揚げと野菜、わかめ  (火)豆腐と野菜、わかめ  (水)肉と野菜、わかめ (木)油揚げと野菜、わかめ  (金)卯の花と野菜、わかめ  各日とも魚粉二〇〇匁であった。

 二十二年度の通明小学校では、児童一人当たり野菜一〇〇から一五〇匁ずつ集め、女子青年団が調理等を手つだっている。このようにどの学校でも、給食用野菜は児童生徒が交代で、かたよりのないように二、三種類くらいずつ決められた量を持参した。調理には、通常保護者が五、六人くらい、多いところでは八人(大豆島)ずつ、交代で当たっていた。

 給食には、学校菜園などで栽培した農作物も利用されていた。二十一年の柳町国民学校では、校庭に三反歩ほど小麦をつくり、手入れがゆきとどいて一二俵の収穫を得て、みそ汁・すいとん・うすやきにして給食に利用した。これにたいし、長野市農業会では、当面する食糧危機と農民の供出にたいする気持ちを説明して、学童の栽培した作物も供出してほしいと、学校側と懇談したが、学校側では石だらけの校庭を耕して作った学童の気持ちをくんでほしいことや、食べ物が足りなくて休みがちな児童に、少しでも給食をあたえて学業がつづけられるよう、特配の途を講じてもらいたいと主張している。女子専門学校(現長野県短期大学)・高等女学校(現長野西高校)・中学校(現長野高校)・商業学校(現長野商業高校)なども、実情をのべて供出割りあての免除・軽減をもとめた。

 また、市街地学童の栄養低下を補おうと、結核・寄生虫などによる貧血児童のために、家畜の骨からとったスープ・だしがらの骨粉・家畜の血液入りパンなどを、指定校に配給する計画もされていた。二十二年十一月になると、連合国軍から提供された三ヵ月分の給食物資の第一陣が到着し、市内各小学校でいっせいに週三回のミルク給食が始まっていた(『信毎』)。

 二十五年には、県下三〇〇余校の小学校のうち、一五〇余校(現長野市内では、古里・朝陽・学校給食指定校の通明・信田などをふくむ)・一五万人ほどが、ミルク給食を受けており、一回に児童一人に一合二勺(約二〇〇CC)があたえられた。みそ汁も提供されるようになるなかで、二十五年になると松代・長野両保健所は、給食について点検をおこなっていた。それによると栄養価はタンパク質・熱量ともぐっと向上し、みそ汁は調理に工夫が見られどの学校もほぼ平均していた。そのいっぽう、給食の施設・資材などは全く貧弱で、炊事場・調理場などは満足なものはなく、落第点ばかりで汚水の流し場・調理場をつくること、金網を張った戸棚の新設、ネズミの駆除、清潔な保管庫、残飯・野菜くずの処理、野菜類の当日裁断などが指摘されていた。長野市内の学校・寄宿舎の給食施設では、古牧・山王小学校のものは、普通の飲食店や一般家庭のモデルとしてもよい、と評価された(『信毎』)。


写真78 給食のコッペパンと粉ミルク(脱脂粉乳) (昭和館所蔵)

 二十六年二月からは、県内六市で小学校の完全給食が実施されることになった。内容は一〇〇グラムのパンと副食で、原料麦が無料提供されるため一食六~九円。一ヵ月一二〇~一五〇円と推定されていた。しかし、完全給食が始まってみると、当初の計画とちがって、パン加工賃をはじめ秋野菜・魚・肉の値上がりのため、一八〇〇人の給食を実施している鍋屋田小学校の場合、毎月三〇〇〇円以上の赤字が出ることとなった。簡単に給食費の値上げはできないし、かといって給食を廃止することもできないので困っていた。六市以外の学校は、二十九年の学校給食法によるパンを主食とする完全給食施行にあわせて、給食室・設備等をととのえ完全給食の実施をしている。若槻・柳原・通明・川柳・東福寺・信田・川中島・青木島・西条・清野・寺尾・東条等の各小学校は二十八、九年から始めた。三十一年度の上水内郡では、完全給食実施校が芋井など三五校、不完全給食実施校が一二校であった(『上水内郡誌』)。完全給食の献立を、通明小学校の例でみると、①パン、いちごジャム、みそ汁、②パン、あんずジャム、カレー汁、③パン、いちごジャム、とん汁、④パン、ピーナッツみそ、ミルク、甘酢煮、⑤パン、あんずジャム、みそ汁のようであった。徴収する給食費は、若槻小学校の場合低学年は月二五〇円、高学年は二六〇円であった。

 この間に、二十六年からの完全給食実施により必要になった給食婦の採用をめぐって、長野市と県とのあいだに対立がおこった。松橋市長は「失業対策だけから、学校給食に未亡人(戦争未亡人等)を採用するのは困る」といい、県では「失業対策本部では、採用の際保健所も立ちあい、衛生・栄養知識もあり教養のある人を使ってもらうようになっているから、問題はない」ということであった。これは「学校給食の完全化を目指し、給食にふさわしい人を未亡人から優先的に選ぶこととし、輪番制でなく同じ人が同一学校を担当する」ということで解決をみた。