教育会の改組と教員組合の結成

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戦時下に翼賛組織であった大日本教育会長野県支部は、昭和二十一年(一九四六)十一月二十二日、会則の民主的改正をおこなって、再び信濃教育会という職能団体に復帰した。信濃教育会(以下、信教)の新会則は「職能団体であること。監督官庁などの掣肘(せいちゅう)(干渉をする)を受けないこと」等の連合国総司令部から出された「SCAP勧告」の主旨にそった、わが国はじめての地方教育会の会則であるといわれている。会の目的には「教育精神の昂揚(こうよう)」と「教育の民主的革新とその充実」をかかげた。また、信教と各郡市教育会との関係では第七条で「本会は各郡市の教育会を部会とする」と規定し、信濃教育会は各郡市教育会の連合体とした。

 しかし、大日本教育会の後身の日本教育会は改組に失敗し、しかも、全国的な教職員組合の結成とその運動の高まりのなかで存在理由を否定され、昭和二十三年八月の総会において解散が決議された。全国の地方教育会も二十二年から二十三年にかけてそのほとんどが解散した。

 長野県の場合は、教育会と教員組合の両者併存の二本だて論(信教)と教組の主張する一本だて論がはげしく対立したが、二十三年二月十日の「二団体の争いは憂慮にたえないことである。一本化は許せないことで軍政部は今日から二団体が協力しあうことを指示する」という長野軍政部指示で結着し、その結果、教組・教育会の共存併置となった。そして、同年三月それまで小・中・高などの全校種を包含(ほうがん)していた一八部会を二三部会(義務制学校一八・高校四・大学高専一)にふやし、二十四年五月には法人格取得のための定款(ていかん)の制定、二十六年三月の世界教育連合(WOTP)への加盟などがおこなわれた(『信濃教育会九十年史下』)。

 信教の改組と並行して、郡市教育会もそれぞれ改組がすすめられた。現長野市域には、長野市・上水内・更級・埴科・上高井の五郡市の教育会があり、それぞれ二十一年から二十二年にかけて改組がすすめられた。

 長野市では、大日本教育会長野県支部長野分会の改組について敗戦直後の二十年十二月、軍政部による書面審査に応急的にまにあわせるための処置がとられたが、二十一年十一月の復活信濃教育会の成立にともない分会規約の改正の問題が提起された。そこで、同年十二月七日の評議員会において会の名称を「長野市教育会」とし、翌二十二年五月一日に新会則を制定した。会の目的を「教育精神の昂揚」と「民主教育の振興」などにおき、事業の内容として「教育思潮および実践の研究」「教育振興のための調査研究」など七項目があげられた。発足時の会員数は七八〇人であった(『長野市教育会史』)。

 上水内郡では、昭和二十二年五月代議員会において、上水内分会規定の改正というかたちで、新会則が議決され再発足した。改正のおもな点は目的の項に「教養の向上と教育文化への寄与」を明記したこと、会長、副会長は会員中より投票によって選出すること、西部・中部・平坦部・東部・北部の地区教育会を設置したことであった。発足時の会員数は九九七人であった。当初の特色ある事業としては、二十五年開設の野尻湖夏季大学の運営、二十九年三月竣工の教育会館の建設等があった(『上水内教育会史』)。


写真81 上水内教育会館 (『上水内教育会史』より)

 更級郡では、昭和二十一年十月郡分会協議員会において、更級教育会への改組を決定、新規約を制定した。更級教育会が発足後、当面した最大の問題は教組、教育会の一本だて、二本だての問題であった。更級郡は両論の対立がもっともはげしい地域で、その結着のためにひらかれた二十二年十一月十日の協議員会では、両派が対立し激論をかわしている。しかし、そのあとの十一月二十九日の教育会総会において、圧倒的多数で二本だてが決議されている。郡教育会の総会で二本だてを決議したのは、県下で更級郡のみであった。更級教育会の発足当初の最大の事業は二十九年六月に落成した「更級教育会館」の建設であった(『更埴教育会百年誌』)。

 埴科郡では、昭和二十一年十二月十日、協議員会において郡分会規則を改正し埴科教育会が誕生した。当初、会の目的や事業は他郡市教育会と大同小異であったが、正副会長等役員の選出方法は、間接選挙であった。しかし、二十七年四月十五日の協議員会で会則改正がおこなわれ、同月十八日の全員投票によって全役員を選出している。なお、埴科教育会の当初の最大の事業は、更級教育会と同様、埴科教育会館の建設(三十年二月十日落成)であった。


写真82 埴科教育会館 (『更埴教育会百年誌』より)

 上高井郡では、教育会上高井分会が昭和二十一年一月に分会規定を改正し、再出発をはかろうとした。その後、上高井分会は信濃教育会が再出発したのを受けて、二十二年五月上高井教育会に改組し、新会則を施行した。新会則は直接選挙による役員の選出などが決められたほか、当時の情勢をふまえて「本会は上高井教員組合と相互に緊密な連絡をとり第三条目的の達成を期する」などの条項が設けられていた(『百周年記念誌上高井教育のあゆみ』)。

 昭和二十一年二月、県下で最初の教員組合として組合員六〇人の木曽教員組合が結成された。翌三月には下伊那郡で、郡教育会副会長が中心となり、全員加盟の郡市単位の教員組合が結成された。二十一年中には、県下全郡市に教員組合が結成された。長野県における教組結成の特色はほとんどの郡市教育会がその手だすけをしたことであった。その代表例が北佐久郡である。二十一年九月の教育会総会で、緊急動議として教員組合の結成が提案され全会一致で決議され、北佐久教員組合が結成された。

 全国段階では、すでに急進的な全日本教員組合協議会(全教協)と、穏健な教員組合全国連盟(教全連)が結成されていた。のちに、県教組は全教協に、北佐久教組は教全連に加盟した。

 長野市における教員組合の結成への動きは二十一年五月十日の長野分会役員会での論議が起点となって、七月の各校代表による準備委員会の成立によって本格化した。九月十一日に規約案の検討、九月十七日に役員の決定、十月十五日に組合事務局の設置などの諸準備がなされ、十一月六日に長野市教職員組合結成大会が、鍋屋田国民学校講堂でひらかれた。市内学校教職員五百余人が参加した。その綱領には「教育者の経済的社会的地位の向上」がかかげられていた。

 上水内郡では、二十一年になって教育会分会の研究調査活動の一つとして、時事問題研究会をつくり、そのなかで組合の結成等が協議され、同年十一月二十二日に上水内教員組合が結成された。組合員数は八五八人であった。結成後、上水内教組が当面した最大の問題は、教員組織にかかわる一本だて二本だての論争であった。二十二年十二月と翌二十三年一月二十七日の二回の教育会代議会におけるはげしい論議の末、職場投票による決着をはかろうとしたが、軍政部指示で禁止された(青木保米三『日記抄』)。

 その後、上水内教員組合は二十九年四月一日、郡内東部一〇ヵ村が長野市へ編入された機会に、その年の六月長野市教職員組合と合併して、長野県教職員組合長水地区連絡協議会(組合員数一四七六人)となった。

 更級郡では、二十一年九月三日第一回教員組合結成準備委員会が通明国民学校で開かれ、その後、十一月十三日までの六回にわたる委員会で、規約原案の審議、宣言・綱領などの検討がおこなわれた。そして十一月十六日に、更級郡教員組合の創立総会が、通明国民学校でおこなわれた。更級郡教員組合も結成後、教組・教育会の一本だて、二本だて問題のほかに、二十三年度末人事にからむいわゆるケリー旋風で大きくゆれることになった。

 埴科郡では、二十一年六月二十日、埴科郡分会長名で「教員組合に関する研究」の開催通知をだし、同月二十八日に第一回の教員組合研究委員会が開かれた。その後、七回の研究委員会で、規約原案・宣言・綱領などが審議され、その研究結果は九月二十六日研究委員長から埴科教育分会長に報告された。そして十一月二十日、屋代高等女学校において埴科教員組合結成大会がひらかれた。発足当時の組合員数は四七八人であった(『更埴教育会百年誌』)。

 上高井郡では、昭和二十一年十月十二日に開催された長野県教組結成のための全県連絡協議会に代表を参加させた。そこで未設置郡市として労働運動に対する認識を深め、教員組合結成の気運を高める運動をすすめようとした。その後、結成準備をすすめて十一月二十一日に上高井教員組合を結成し、十二月二十六日の長野県教員組合の結成大会に代表を参加させた。

 各郡市での教員組合が結成されるのと並行して、全県の組織を統一した長野県教員組合への動きも高まって二十一年十二月十二日に第一回全県連絡協議会がひらかれた。以後、三回の連絡協議会と二回の結成準備会を経て、十二月二十六日に、長野市鍋屋田国民学校講堂に、県下各郡市の一八の教職員組合(北佐久を除く)の代議員二三二人を集めて、結成大会がひらかれた。規約・綱領を審議決定し、役員の選出がおこなわれ、長野県教職員組合が誕生した。