長野日米文化センターは、昭和二十五年(一九五〇)長野市城山に開館の「CIE(総司令部民間情報教育局)図書館」(当時の通称アメリカ図書館)からはじまっている。
しかし、これより先、別に二十二年三月三十日長野軍政部によって、民間情報教育読書室が県立長野図書館応接室に開設された。これは、東京はじめ全国につくられたCIE図書館より小規模のもので、日本人にたいして海外(主としてアメリカ)の文献を提供し、占領目的にそって教育をすることを目的にしたものであった。これにより、それまでの進駐軍読書室は発展的に解消され、軍政部側から専任職員二人がおかれて一般の利用者もしだいに増加した。同室はその後二十四年六月、二階の閲覧室一隅に移されたが、二十五年六月には「CIE長野図書館」が市内城山公園に開設されるにおよんでその任務をおえた。
その後、長野県内にもアメリカ図書館を設置する計画がすすめられ、長野・松本両市が候補にあがったが、二十四年の長野平和博覧会でCIEの資料提供で開催された「アメリカ文化館」の建物(長野市公民館)がよいことに内定した。しかし、そのままでは使用に耐えず計画では、五万ドル(当時の邦貨一八〇〇万円)で館内の大改造をおこない、維持費五〇〇万円が見こまれていた。市ではこれを機会に公民館付近には規定計画のテニスコート、バレーコートなどの整備もするとした。
二十五年十月三日「アメリカ図書館」の開館式がおこなわれ、同日午後一時から一般の縦覧がはじまった。これは日本における一九番目のCIE図書館であったが、人口二〇万人以下の都市では最初のものであった。初代館長にはアメリカ、サウスカロライナ州出身、エイツ女史が就任した。エイツ館長は開館にあたり「同年十月十四日に四〇〇人余の日本人がアメリカの大学および専門学校ヘ一年間留学するが、そのための英語の資格試験や、口頭試験、人物試験などにより多くの人が合格するために、この新しいアメリカ図書館を利用することを希望する」と発表した。
この図書館の開館時間は毎日(月曜日から土曜日まで)午前九時から午後六時まで、閲覧室(ブック・ルーム)には、産業経済、工業、文化等各方面の専門書や一般原書が三千冊以上設備され、閲覧方法はまったく自由で、だれでも無料で閲覧することができ、好きな本を自分で自由に本棚から選んで読むことができた。子どもの部屋(チルドレン・ルーム)には、アメリカの子どもの本が置かれ、雑誌閲覧室(マガジン・ルーム)には、ライフ、タイム等の各種雑誌が置かれていた。レコード室(ミュージック・ルーム)では、各種の名曲レコードが置かれ、その室で鑑賞できた。講堂(オーディトリアム)は、映画、講演、集会等に利用し一般にも開放された。
開館後十二月の『長野市報』では、閲覧会場利用について「洋書の月刊雑誌四百種、書籍五千冊、和書類の翻訳書約五千冊、写真画報各種。英語講座は毎週月・火・木曜日午後五時から六時まで、英会話は毎週土曜日一時から二時まで、希望者は誰でも受講」と報じている。
二十七年四月二十八日対日講和条約・日米安全保障条約の発効にともない、長野市では独立記念として市民会館の建設や市内公園の整備などの諸事業を計画した。そのなかの一つCIE図書館は管轄がアメリカ大使館文化交換局に移管されエイツ館長も退任した。そして同年五月七日から名称が「長野アメリカ文化センター」と改称されて、新館長にはジョージ・M・コーブ氏が就任した。名称や館長がかわっても内容にはかわりがなく、日米文化交流の事業が活発につづけられた。
しかし、二十八年十月二十五日アメリカ大使館の意向により閉鎖することになった。この閉鎖については市民から存続の希望もあり、長野市および名古屋アメリカ領事館文化交換局との協定のもとに、旧長野アメリカ文化センターの設備資料のすべてを長野市に移管し、同年十二月十二日から市の管轄による「長野市公民館アメリカ文化部」として再発足した。
その後、再度協定が改訂され、二十九年九月一日からは「長野日米文化センター」と改称、以後、これを長野市公民館内に併置し、公民館長がその管理運営にあたることとなった。公民館移管後は、飯島文庫、視聴覚機材等日本側の資料も加わり、それら資料の館外奉仕、資料の閲覧貸し出し、レファレンスサービス、各種の行事、また、視聴覚の活用等モデル図書館として、かつての長野アメリカ文化センターに劣らない設備が整い活動が展開された。
日米の文化的協調の面でも、当センターを中心として、毎年夏期三週間ずつ四ヵ年にわたって開催された長野米文学ゼミナールは、日本各地の大学教授、助教授を対象とするもので、日本国内においても特異な試みであり、国内の文化に寄与する点も大きかった。さらにまた、同センターは、所蔵の資料を広く利用に供するため、県内の各所に分館を設置し、資料の便宜斡旋をおこなった。長野市内の分館は、長野県短期大学、信州大学教育学部、同工学部、国立長野療養所などに併置された。
同センターの開館は午前九時半から午後六時まで、休館日は毎週水曜日、祭日で、事業の概略は、つぎのようである。
定期行事
①日米文学講座 アメリカ文学作品の研究(毎日曜日三時~五時)
②初級英文学講座 初級程度英文学の研究(毎土曜日三時~五時)
③基礎英会話講座 レコード、テープレコーダーによる指導(毎金曜日五時~六時)
④英会話研究会 視聴覚資料を利用しての研究会(毎日曜日一時半~三時)
⑤英米文学読み合せ会(毎日曜日二時~四時)
⑥レコードコンサート(第一、三土曜日二時~四時)
⑦野外コンサート 夏期城山公園にて開催(月二回程度)
⑧映画試写会 (第二、四、五土曜日二時~四時)
特別行事
①特別講演会 外国人講師の文学、科学、政治等(年一〇回程度)
②展示会 南極大陸展、原子力展等
③天文観測の夕 夏期の星座観測と講演
④特別演奏会 アメリカ空軍楽団の演奏会(年一回程度)
⑤その他 館内小展示(随時)
このように、アメリカ文化の導入やさらには両国の文化交流に寄与してきたが、時代の進展により、三十九年には同センターの地籍に信濃美術館の建設が決まり、同年十一月公民館事務所は城山の長野市観光館内(現城山公民館)に移転した。これにともない四十年一月の『市報ながの』は、日米文化センターについて「長野市とアメリカとの協定によって公民館に併置されています。英語図書八三〇〇冊、翻訳図書二六〇〇冊があり、現在、これは県立長野図書館で貸しだしています。飯島文庫・通教文庫・信濃史料等数千冊の図書は、公民館図書室で貸しだしと閲覧をおこなっています。この外事業として一般市民を対象に外人講師を招いて、①夏期英会話セミナー毎年八月初旬一〇日間程度、②一般英会話講座週一回三ヶ月程度を開きます」と報じている。そして、四十年八月七日には、財団法人(当時)信濃美術館建設の起工式がおこなわれ、長野日米文化センターは事実上その姿を消した。