昭和二十五年(一九五〇)二月十七日から三月九日までの間、五回に分けて長野市公民館でははじめての成人教育講座を開設した。会場も芹田地区、城山大会場(現城山公民館)古牧地区、旧市内、吉田地区とし、内容は農村の食生活改善と料理実習、性教育について、婦人会のあり方、映画(CIE)、レクリエーションなどであった。このころ、長野市連合青年団は組織が停滞していたためこれを強化し、団体活動を通して青年教育の進展をはかる方針で企画されたものであった。青年層の中ではこの講座を通して青年組織再建の気運がおこり、準備委員会の結成をみるにいたり、二十五年五月二十七日新たに「長野市青年団体協議会」が結成された。この協議会は地域青年団だけでなく、青年の同志的グループも包含するものであった。
公民館では、前年の成人講座を充実させるため、二十五年度にはこれらの青年団と共催で十一月から十二月のあいだに市内六地区で三講座ずつの青壮年講座を開催することにした。ところが、同年九月関東民事本部教育部の指導により、市教育課主管のもとに組織的な定期講座として、さらに、一般市民を対象にした「成人学校」を開校することになった。しかし、当時の長野市社会教育の組織では、成人学校は市教育課の主管になっていたため、公民館の主管から離れることとなった。
市教育課では二十五年度から、年二、三回の成人学校を開校したが、入学資格は一六歳以上(学生は除く)ならだれでも入学できるとし、第二回成人学校では、二十六年二月五日から三月十六日まで六週間、鍋屋田小学校と吉田小学校で毎日六時から開校した。科目は民主主義の解説・法律の知識・時事解説・日本文学・外国文学・洋裁手芸・珠算・英語(初等)・英語(中等)・家政・レクリエーションなどで、受講料として全期間を通じて一人五〇円であった。
二十七年三月松橋久左衛門市長は新年度の方針として、六つの重点政策を発表したがその一つに「社会教育の一元化を企図し、公民館特別会計の充実」をあげ、「従来の二元的教育行政を本市独自の考案により、公民館長のもとに体育・視聴覚・成人教育等純教育外を統一して一段と市民の教養に貢献したい」とした。
この方針は同年教育委員会の発足とも関連して成人学校の主管は再び公民館にもどった。しかし、成人学校の開催回数はそのまま引きつぎとなり、第一〇回成人学校は二十八年七月二十日から八月二十八日まで、毎週月・火・木・金の午後六時~八時、受講料五〇円で一九歳以上の一般市民となっており、教科のうち世界史テキストには岩波新書のウェルズ著『世界史概観』を使用するなど、かなり程度も高いものになってきていた。
PTA母親文庫の名で県立長野図書館の本が館外に貸しだされて、回覧読みが始まったのは昭和二十五年(一九五〇)九月二十一日であった。当時全国的な学校教育の潮流のなかで、信州大学教育学部附属長野小学校で、学校図書館を充実させたいという計画がPTAに出された。この課題討議のなかで「子どもに本を読ませることは大事だが、母親が読まないで子どもにだけ読めではだめではないか」というのが同校PTA教養部の大きな声であった。たまたま、叶沢(かのうざわ)清介県立図書館長が同校のPTA教養部長の任にあり、母親たちから「ぜひ県立図書館の本を附属小学校の母親たちに貸しだしてほしい」と要望したのが事の始まりであった(長野市北部PTA母親文庫『五十年の歩み』)。
以後、叶沢館長のアドバイスもあり、各クラスごとに児童を四人ずつに分けたグループをつくり、子どもの持ちはこびで、四人の母親が一冊の本を一週間で回覧するという基本原則が決められた。このとき母親の数は約六〇〇人、同校全部の母親がこれに参加した。
二十六年からこの方式は長野県PTA母親文庫として全県下に波及し、二十九年十一月の第四回長野県図書館大会(諏訪市)から、母親文庫部会として加えられた。三十四年には長野市母親文庫運営委員会が発足し、学校関係二一団体、保育園関係三団体、その他婦人部三団体がふくまれていた。そして同年九月二十日には、本を読む母親の全国大会へ長野市が参加した。このころ、全県の母親参加は約一三万人におよび大読書運動にまで発展した。しかし、各地域に広まった母親文庫はそれぞれの地域の実情によって組織や運営は多様であった。
長野市朝陽小学校の母親文庫は、学級単位として発足した。後には、PTA会員以外も加入させ、さらに、運営単位も地区単位にかわり、常に二〇〇人前後の会員をもっていた。文庫の正副会長はPTA文化部の部員があたり市の運営委員として出席した。さらに、四十五年四月には、PTA組織の専門部の一つとして位置付けられた。その内規の要点は、①組織はPTA全会員とするが、読書グループは希望者をつのる、②役員は各地区から二、三人の責任者を選出し、その中から部長一人副部長一人書記一人、学校職員若干人とする、③読書グループは地区単位とし、一グループ四人で毎月一冊の本を回覧する、④会費は市運営委員納入金のうち二〇円はPTA本会から補助をうける、というものであった。また、そのほかに事業として、読書会年一回、学校図書館の図書整備年二回、PTA文集および母親文庫だよりの発行などがあった(『波紋』八号)。
七二会小中学校では、叶沢館長から「農村婦人にも読書を」の呼びかけがあった昭和二十六年、村に母の会という団体ができてこの活動をした。当時の村内はまだ交通の便もわるく、役員は二里(約八キロメートル)もの長い坂道を、本を背に歩いて運んだ。四十一年村内の道路事情もかわり谷間や高地の集落にも車が通るようになったころ、組織がかわりPTAのなかに母親部として位置づき、一〇人くらい揃って県立図書館へ本を運びにいった。この年の十月十六日村は長野市と合併して組織がかわり、地区単位(一〇区)で運営、しかも農閑期だけということになった(『波紋』一〇号)。
四十六年十一月四日、長野市PTA母親文庫は社団法人読書推進運動協議会から、第一回読書推進賞(団体)を受けた。この賞は四十四年秋講談社社長野間省一から一〇〇〇万円の基本財産の寄付を受けて、四十六年の読書週間から顕彰がはじまったもので、毎年賞状と盾に個人一〇万円、団体二〇万円が副賞として付けられるものであった。