第二次世界大戦下に企業整備の名目で、長野県内の新聞は、『信濃毎日新聞』(以下、『信毎』)一県一紙に統合されていた。敗戦から約一ヵ月半後の昭和二十年(一九四五)十月四日に、連合国軍総司令部(GHQ)は政治・信教・民権の自由にたいする制限を撤廃する覚え書(メモランダム)を、日本政府にわたした。
このGHQの指導により、朝日・毎日・読売などの中央紙が、再び地方に進出してきた。また、『信毎』一紙に統合されていた長野県内各地の地域紙も復活をはじめ、南信日日新聞や新陽新聞・岡谷市民新聞などが続々と復刊した。信濃毎日新聞社の系列会社として夕刊信州社は昭和二十一年六月に設立され、夕刊信州を発行した。同社は同年九月増資をおこなって設備を増強し、昭和二十二年(一九四七)一月に『信毎情報』を創刊し、同年三月には『信濃婦人新聞』を発刊し、また、同じく同月には今日につづく『信毎年鑑』を出版した。
昭和二十四年九月現在、県下で購読されていた新聞は、中央紙地方紙合わせて四五万部であったと『信毎年鑑』は伝えている。この年の県内の新聞社は、最大手の信濃毎日新聞社を筆頭に日刊紙一〇社、夕刊と週刊を合わせると合計三六紙を数えた。このうち、長野市内で発行されていたのは、前記の信毎や夕刊信州のほかに『繊維タイムス』があった。この年の『信毎』は一二万四二〇五部の発行部数であった(『長野市勢一覧』)。青年団の新聞や学生新聞もさかんに発行され、二十三年十月から長工(現信大工学部)、松高(信大人文学部前身)等八校の学生の手になる『信州学生新聞』が創刊された。
敗戦後の物資不足で新聞用紙の確保が難しく、『信毎』も昭和二十一年十二月には新聞をタブロイド判にせざるを得なかった。二十二年冬には石炭不足でパルプの原木の輸送も新聞用紙の輸送もままならず、用紙事情はさらに悪化したが、昭和二十三年八月ころから好転のきざしをみせ、八月からは一週一回四頁の発行が実現した。
統制の余波を受けて、自宅に配達される新聞以外への変更はできない建前であった。昭和二十三年十一月一日から二十日の間に、「転読申込書」を提出すれば転読ができることになった。受けつけた新聞転読調整事務所は申しこみを、地方監査委員会に送付し、中央監査委員会、購読調整委員会の順で審査し、これを用紙割当委員会に報告した。ここで読者は新聞の変更を認められたのであるが、これは各新聞社が割りあての用紙で新聞を印刷していたからである。この機会に発行部数をのばそうと違法な勧誘がおこなわれ、用紙割当委員会は申しこみの六一パーセントを無効とした。信毎は朝日新聞、秋田魁(さきがけ)新聞とならんで、五〇〇部以上の増刷を認められた。増刊の認められた新聞社は、全国で一四社であった。
昭和二十四年度の県下の新聞購読部数は、きびしい用紙の不足にあえぎながら、前年を一万部上まわる四六万六〇〇〇部に増加した。この部数には、『信濃婦人新聞』と『南信婦人新聞』・『南信こども新聞』(南信日日新聞社発行)はふくまれていない。学生新聞も各校でだされ、各労組の新聞もでているが、まとまった形態のものは共産党の『しんながの』であった。
新聞の増頁が当分望みうすであったので、全国一五新聞社は記事量を増やすために、一面一七段制を一八段制に改めることを始めたが、『信毎』も二十三年三月一日から一八段制を採用した。しかし、これにたいしては、読者からも全新聞労組からも見づらい、目のために悪いと反対が強かった。
昭和二十五年の朝鮮戦争以来新聞用紙の輸出が増大し、国内需要は逼迫(ひっぱく)したが、二十六年三月の通産省令で紙の船積み差しとめが実施され、五月からは新聞用紙および配給価格統制廃止の措置がとられ、一三年間におよんだ統制が解除された。また、明治四十二年制定の新聞紙法は、敗戦で死文化していたが第五国会で廃止が決まり、これに代わる法案も議されたが、現行のプレスコードのみでよいということになった。中央紙も『信毎』も朝刊と夕刊のセット販売を始め、自由競争の様相は激化した。新聞は情報量を多くするため、視力には悪い小活字を使用していたが、昭和二十六年一月一日から全国有力紙は、明るい見やすい紙面をつくるため活字を大きくし、一五段制を採用した。『信毎』もこれを実施した。
信毎の労働組合は敗戦後いち早く結成され、職場の民主化をかかげて会社と労働協約を締結し、役員は総退陣し、長野県労働運動の指導的役割をになった。民主化に燃える『信毎』の論説は紙面の随所にみることができる。超国家主義的体制からの解放は、共産党の復活をはじめ左翼的活動の高揚をもたらし、この状況のうえに労働組合の活発な活動がみちびきだされた。
組合活動は全国的組織の強力な指導下に、昭和二十二年二月一日のゼネストで頂点に達した。まさに革命の前夜を思わせる状況が現出し、GHQの介入でストライキは中止され、ゼネストへの参加と不参加の立場のちがいが、以後の労働運動に大きく影響した。この二・一ゼネストへのGHQの介入以後、労働運動も文化運動もファシズムからの解放という蜜月状態にひたっていることはできなくなった。民主化というかけ声での連帯は崩れ、思想的対立を内部にひめて、組合活動も学生運動も青年活動も、政治的な対立をかかえる状況に達した。
昭和二十五年七月十八日に連合国最高司令官マッカーサー元帥の吉田首相あて書簡で、共産党の機関紙『赤旗』およびその後継紙に、無期限停刊の措置がとられた。同時に新聞界にレッドパージの嵐が吹きあれた。七月二十八日に新聞・通信・放送の各社は、社内の共産主義者およびシンパと見なされたものを解雇した。昭和二十六年から翌年前半にかけて新聞界は、レッドパージの余波と講和条約調印から発効のはざまで、破壊活動防止法案・刑事特別法案の反対に立ちあがった。これら法案は言論・集会・思想信条の自由をそこなうものとして『信毎』をふくめた新聞界の反対声明は、労組、学術団体、法曹界、文化団体の反対運動を支えるものであった。
敗戦後の長野県の文化活動で見すごせないのは、疎開した会社や文化人の活動である。一時は疎開してきていた中央の有名出版社や印刷会社が長野県で出版活動をしていたが、しだいに東京に引きあげた。昭和二十二年末の長野県下の出版社(日本出版協会加盟)は四四社で、これは東京・大阪・京都・神奈川につぐ第五位の多さであった。
昭和二十三年段階の長野県下で発行されていた雑誌は、『信毎情報』・『農業信州』(信濃毎日新聞社)、『信濃路』(長野県農業会)、『信州及び信州人』(信州及び信州人社)、『新詩人』(新詩人社)、『明日香(あすか)』(明日香書房)等数十種にのぼっている。この年、長野市内の出版社は二八社であった。このなかには前記出版社のほか、『信濃教育通信』を発行する信濃教育会出版部、伝田精爾の短歌雑誌『比牟呂(ひむろ)』などがある。アララギ系の比牟呂や宮崎茂の『いわひば』が活躍するいっぽう、俳句では栗生純夫の主催する『科野』、渡辺幻魚の『黒姫』などが勢力をもっていた。
世相の安定化とは裏腹に、出版界は年ごとに沈滞し昭和二十六年には県下の出版社は十数社に減少した。雑誌類は主として公的な機関の広報雑誌か、あるいは短歌・俳句などの同人誌のみが活発という状態となるなかで、長野県農業文化協会(農文協)の『明日への待望』は、昭和二十五年度の毎日出版文化賞を受賞した。
長野市岡田町にあった小出ふみ子の主催する『新詩人』は、マンネリ化と批判されつつも高橋玄一郎、島崎光正、殿内茂樹などの県内詩人を同人とし、近代詩論においては詩壇の注目をあびた。また、この同人のなかから島崎光正は独特の平易な詩で、詩壇に認められる詩人となった。
日本放送協会(NHK)は戦時色を脱却して、民主化された番組を送りだしていたが、町の声を聞く街頭録音や「素人のど自慢」などの聴取者参加番組が、民衆に迎えられた。昭和二十六年三月十一日に人気番組「とんち教室」公開録音が城山小学校でおこなわれた。これはNHK長野放送局の開局二〇周年記念の行事であった。また、五月二日には「私は誰でしょう」の公開録音が山王小学校で、七月十五日には第二七回放送討論会「地方税の改正は国民生活にどう響くか」が城山小学校でおこなわれ、九月三十日には相生座でおこなわれた第九回宝くじ抽選の実況が全国へ放送された。
昭和二十一年には一万二〇五六世帯であったラジオの聴取世帯は、昭和二十三年には一万三八〇九世帯へと増加した。ラジオ所有世帯ではなく実際にラジオを聴いていた聴取者は、二十三年五月現在で二〇万一〇八人であった(『信毎年鑑』)。
ラジオの聴取世帯は昭和二十六年には一万八〇〇〇世帯まで増加し、聴取者はゆうに三〇万人をこえる状況となった。この状況と相まって、民間放送として信濃放送の設立運動が始まった。受信の範囲は長野県から群馬県、富山県の一部、新潟県上越地方までおよぶので、長野県内の各市にくわえ、新潟県高田市にも設立への協力を依頼し、会社名は信越放送(SBC)となった。
信越放送は昭和二十六年(一九五一)十月十八日に予備免許がおり、さっそく長野市吉田に放送局の建設をはじめ、翌二十七年三月二十五日に開局した。地方放送局は一流芸能人による独自の演芸娯楽放送は困難であった。そこで、番組は朝日放送、ラジオ東京、中部放送などと提携し、有線放送や録音テープ、共同製作でこの欠陥をおぎない、ローカル放送としての特色を発揮した。
ことに、農村向けの番組に重点をそそぎ、「明日の農作業」「農家の時間」「農協の時間」などを放送したが、これは好評で迎えられた。また、子どもの時間には積極的に取りくみ「子供クイズ」のほか、長野市東部中学校の放送する「子供ニュース」は教育方面に反響をよんだ。いっぽう、中央のラジオ局と提携する「プロ野球オールスター戦」や、NHKがシャットアウトした「ボクシング世界選手権」の実況中継は好評であった。信越放送独自の制作で民放各社に出した番組には「米子鉱山の生埋め事件」「軽井沢清談」「戸隠の初夏の小鳥」などがあった。
民間のラジオ放送の開始と同時期に、NHKと日本テレビジョン放送網株式会社など四社が、電波管理委員会に放送の許可を申請した。信越放送もテレビ時代の到来にそなえて白黒テレビの放送の準備に入っている。