神道指令と神社

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大日本神祇(しんぎ)会を組織して第二次世界大戦の精神的支柱の役割りを果たした国家神道(しんどう)は、敗戦により昭和二十年(一九四五)十二月十五日の連合国最高司令官総司令部参謀副官発第三号「日本政府ニ対スル覚書」通称「神道指令」により、国家神道、神社神道にたいする政府の保証と、神社にたいする支援と保全、また、監督と神道の弘布が禁止された。

 この神道指令は、神道の戦争責任にたいする糾弾(きゅうだん)を目ざしていた。国家指定の宗教や祭式に国民が動員されること、神道にたいする信仰告白を強制されることから日本国民を解放することが指令された。また、戦争犯罪、敗北、苦悩、困窮の悲惨な状態を招いた「イデオロギー」にたいする財政的援助を禁止した。さらに、日本国民の経済的負担を取りのぞくために、神道の教理と信仰をわい曲して日本国民をあざむき、侵略戦争へと国民を駆りたて、軍国主義的で過激な国家主義の宣伝に再び神道を利用することのないよう、趣旨の徹底を命じる詳細な指令であった。

 この膨大な指令の根幹は、公務員が公的資格で神道の保護をしてはならないということと、公的財源から神道の保護をしてはならない、という二点であった。具体的には、県庁内におかれた神社行政に関する事務局の廃止である。神社は内務省所管の組織であり、長野県庁内にも知事を支部長とする大日本神祇会長野県支部がおかれ、神社行政は社寺兵事課(現広報文書課)でおこなわれていた。これらの組織はすべて廃止され、民間の普通の宗教団体に改組されることになった。

 昭和二十一年一月二十三日に「神社本庁」の設立総会がおこなわれた。この包括宗教法人格をもつ組織の誕生で、神社界の三大勢力であった「大日本神祇会」「皇典研究所」「神宮奉斉会」は指導的立場から姿を消した。同年二月二日、神社はすべて国家管理の手を放れ、宗教法人の民間団体として発足した。

 長野県神社庁は昭和二十一年二月はじめから、長野市城山の神祇会館に仮事務所を設けて発足の準備をすすめ、五月六日に設立された。この日、長野県神社庁は発足の声明をだした。この声明のなかに、神社は久しく「国家の宗祀(そうし)」であったが、これからは神社の本質にしたがい「国民信仰の標的たる真姿」に立ちかえること、マッカーサーの指令と宗教法人令を遵守(じゅんしゅ)する事がのべられている。長野県神社庁初代庁長に中島正国が就任し、長野支部長に原春苗、副支部長に斉藤袈裟俊、幹事に斉藤吉延が就任した。

 昭和二十一年八月二十一日には長野県教育民生部長から「祭事に武器類使用禁止」の通達が発せられた。神社は伝統的慣例で、太刀(たち)や槍などが祭事につかわれていたが、たとえ、装飾的であっても武器の使用は軍国主義的行為であるから今後はおこなわないように、武者行列等をおこなうときは所轄の警察署と連絡してあやまりないように注意するよう通達が各神社にだされたのである。

 敗戦後の宗教界、とくに神社と寺院にとっての大事件は農地改革であった。明治維新以後も旧幕府時代からの引きつづきで、朱印地・黒印地、除地など、神社は社格にしたがい相応の特権をあたえられていた。神社がもっていた農地、牧地は、すべて不耕作地主(農業従事者ではない者)の財産として買収の対象となり、神社は財産をうしなった。明治以来、行政は神社運営の安定のために、財産の造成を指導していた。氏子から通常の運営費を徴収する経験をもっていなかった神社は、神職にたいする支払いその他で、一宗教法人として基本財産なしに歩きだすことになった。

 例祭の執行には、かつて県や市町村からそれぞれ幣饌料(へいせんりょう)が支給されていた。敗戦で公的機関からの支給がなくなったので、昭和二十二年の長野県神社庁幹部会は、神社の社格にしたがい県社は二〇円、郷社は一〇円、村社は五円の幣饌料を供進することを決めた。かつては県社、郷社には県の職員が供進したのであるが、県郷社には長野県神社庁各支部長が、村社には各奉仕神職が持参供進することになった。

 二〇年ごとにおこなわれる伊勢神宮の式年遷宮(せんぐう)は、昭和二十四年がその年次にあたっていた。敗戦後の社会的混乱を考慮して延期されていたが、第五九回式年遷宮奉賛会が昭和二十四年に結成され、奉賛会長野県本部長に神津藤平長野電鉄社長が就任した。伊勢神宮は昭和二十九年に式年遷宮をおこない、豊受(とようけ)大神宮は昭和三十二年におこなうことで募金がはじまった。

 長野県では第二次大戦前から今井五介をはじめ、民間人を会長とする神社総代会が形成されていた。この民間による総代会は全国的にみて進んだ組織であった。県内持ちまわりで毎年総代会が開かれたが、昭和三十一年の第十一回長野県神社総代連合総会において、「建国記念日を制定し国民の祝日に加えられる様其筋に要望すること」と「神社法を速やかに制定するよう神社本庁を通じて其筋に要望すること」が決議された。宗教法人法施行一〇年で、神社の姿勢は神道指令の路線を修正する歩みとなっていった。

 昭和三十一年六月、長野市は城山公園整備のため公園内にある長野県神社庁の建物を、適当な場所に移転してほしい旨の申しいれをおこなった。神社庁でも庁舎改築を計画しているときであった。この庁舎の前身は長野県皇典講究所であり、明治十八年(一八八五)から長野学校(現城山小学校)の敷地のなかにあり、明治四十年(一九〇七)に城山公園の中に移転したものであった。長野市は信濃招魂社の近くへの移転を申しでたが、神社庁は現在地もしくは近くへの移転を主張した。隣接地が市側の配慮で提供されることになったが、新聞が無償提供は憲法に違反すると書きたてたので、むずかしい局面がうまれたが、長野市が八五万円の移転保証料(地代分)を支出する事で落着し、長野県神社庁は現在地に建設され、昭和三十三年九月十二日に長野県神社庁本殿鎮座祭と氏子会館落成式をおこない、翌十三日に落成祝賀式をおこなった。


写真93 城山の長野県神社庁舎・氏子会館