昭和十六年(一九四一)十月、日本国内と日本統治下の朝鮮、中国、台湾のプロテスタントキリスト教の大部分は「宗教団体法」の施行で、強制的に合同させられた。この合同教団は「日本基督(キリスト)教団」という名称であった。合同に際し教会名の調整がおこなわれ、日本基督教会長野教会は「日本基督教団長野教会」と称したが、日本メソジスト教会長野教会は「日本基督教団長野県町(あがたまち)教会」と改称し、同じく日本メソジスト教会松代教会は、「日本基督教団松代教会」となった。妻科基督伝道館は非法人教会であったが、法人化して昭和十六年に日本基督教団に加入し、「日本基督教団妻科教会」を名のった。妻科教会は昭和二十八年に長野市七瀬にうつり、七瀬教会と称したが昭和四十五年に「信州教会」と改称し現在にいたっている。
救世軍の長野小隊は「軍」という名称と本営がイギリスにあることで白眼視され、「愛隣教会」と改称して日本基督教団に加盟し、「日本基督教団長野愛隣教会」と称したが、たびかさなる迫害で昭和十八年に解散した。救世軍の信徒はそれぞれ市内の教会に転会した。篠ノ井町を中心に青木島、稲里村に拠点をおいた日本メソジスト教会の「信濃農村社会教区」という農村更生(こうせい)運動を中心にした篠ノ井教会があったが、戦時下で更生運動はとん挫(ざ)していた。したがって、敗戦後の長野市域の日本基督教団の教会は、長野教会、長野県町教会、妻科教会、松代教会の四教会であった。
いっぽう、聖公会の長野聖救主教会は聖公会の中部主教区に属する教会であったが、中部主教の指導で迫害を覚悟のうえ政府の指導にしたがわず、信仰上のちがいを理由に、日本基督教団には加盟せず単立の教会となった。また、この教会を中心に五二年間におよぶ日本伝道をおこない、小布施(上高井郡)の新生療養所設立に尽力したセ・ジ・ウォーラー司祭は、カナダ人であり、戦時下では敵性外国人であった。再三の帰国勧告にもしたがわず残留していたが、開戦以後は軟禁状態にあった。昭和十七年(一九四二)六月十三日に最後のミサを自らあげ、翌日長野をはなれ交換船で帰国した。この日ミサに加わった者は男三人女一人であった。
敗戦後は進駐軍(アメリカ)兵士の信仰がキリスト教であるため、進駐軍兵士がそれぞれ自分の教派の教会の礼拝に出席したこともあり、キリスト教ブームといわれる状況が出現し、各教会は活気を呈した。アメリカ軍の従軍牧師も市内の教会に出席していたので、昭和二十一年には市内の教会が合同で従軍牧師の送別会を開いている。
長野県町教会は昭和二十年七月に、隣接する日本勧業銀行長野支店(現労働金庫)を守るため、建物強制疎開で取りこわされていたので、礼拝は長野県庁前の旭幼稚園ホールでおこなっていた。この幼稚園はカナダ合同教会の幼稚園であったが、戦雲急を告げ外国人の退去がはじまった昭和十五年(一九四〇)に、長野県町教会に経営が移管されていた。
敗戦直後から昭和三十年にいたる時代は、キリスト教ブームという現象がおこっていた。その情況を、聖公会の長野聖救主教会の礼拝出席者数(表44)でみると、昭和二十三年の礼拝出席者数は平均一〇四人であるが、毎年一五パーセントほど増加し、二十六年の平均出席者数は一七八人におよんでいる。
長野県町教会では強制退去させられていたカナダ人宣教師が昭和二十一年には復帰してきた。聖救主教会のカナダ人宣教師も同じく帰任した。カナダ合同教会の婦人宣教師は長野県庁前の婦人宣教師館にもどってきたが、そこは戦時中の建物強制疎開で教会は破壊され、教会の臨時集会所となっており、また、外地から引きあげてきた教会員の数家族が同居するという状況であった。
帰任したカナダ合同教会の婦人宣教師たちは、いったん委譲した旭幼稚園の経営には再び関与せず、キリスト教の伝道に専心した。
長野市民のキリスト教志向をふまえて、長野県町教会は昭和二十二年の初頭から、「キリスト教講座」を開設した。その「講座案内」には「新日本の建設はキリストの福音に基づかねばならぬとは我々の信念であります。このために我々はもっと深く基督教を知りたいと思います。斯(か)かる願いをもって講座を開きます。」と記されている。日本国民あげてのスローガン「新日本建設」の一翼をになう意気ごみであった。
この基督教講座は、一教会の伝道事業ではなく北信地方の諸教会の合同で開かれた。時代を反映して講師には二世の進駐軍通訳の牧師が加わり、「基督教と民主主義」を担当している。また、この講演会は会費を徴収した。講義中には「南十字星の下より帰りて」というこの時代を反映したものもあった。
高校生の中にも英語ブームがおこり、宣教師の開いていたバイブルクラス(聖書研究会)には大勢の青年男女が集まった。この中から大勢のものが教会の礼拝や日曜学校に参加した。信州大学教育学部や長野県短期大学にも聖書研究会が生まれ、教官も学生と一緒に研究会に加わった。教育学部の聖書研究会には毎回四〇人が出席する盛会であった。
長野市に三三年間駐在したカナダ人宣教師ダニエル・ノルマンは、長野市民に親しまれた存在であったが、去りがたい日本を退去させられ、母国カナダに帰ってまもなく死亡した。軽井沢生まれで長野市育ちのハーバート・ノルマン(アメリカ流にはノーマン)が、進駐軍総司令官マッカーサーの高級官僚として日本に赴任し、カナダの初代公使となっていた。昭和二十二年六月、ハーバートはなつかしの地長野を訪問し、父ダニエルの追悼礼拝に出席したが、この追悼会は長野市あげての観を呈した。県知事林虎雄、長野市長松橋久左衛門が追悼の辞をのべている。
この追悼会後、信濃毎日新聞社講堂に席を移し、A・Rストーンが「ダニエル・ノルマン先生を語る」という講演をしたが、つづいてハーバートの講演は信州人を鼓舞する言葉を最後に付けくわえた「封建制下の人民」であった。この講演原稿はマッカーサー総司令官に献呈された。
第二次大戦前は諏訪・伊那地区で伝道したフィンランド福音ルーテル教会が、戦後は長野市で伝道を開始し、後には上松地区に福音ルーテル長野教会を設置している。
日本の経済が発展してくる段階で、カナダ合同教会は日本人への伝道は日本人でという方針となり、昭和四十年に長野伝道から撤退した。聖公会も、ほぼ同時期に宣教師は長野地区からひきあげた。この時期から、伝統的大教派のキリスト教とは異なる、福音的なアメリカ人宣教師が長野で伝道するようになり、長野福音教会が形成された。現在では、福音的教派の日本聖書教会、日本バプテスト長野教会、セブンスデーアドベンチスト長野教会、在日韓国人長野教会が長野市内で伝道している。
カトリック教会は昭和十三年(一九三八)以後、長野市で伝道した。この教会は当時ドイツ領であったシレジア管区の教会であったが、ドイツの敗戦で日本人による日本管区の教会となった。長野市鶴賀に聖堂と保育園を、吉田地区にも聖堂と同じく保育園を擁(よう)している。
第二次世界大戦下で野沢温泉(下高井郡)に疎開していた修道女たちが、戦後長野市に高等学校を設立した。これが今日の清泉女学院短大と高等学校であり、高校は長野市城山に短大は若槻上野に校地がある。