善光寺の法人化と仏教界

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昭和十四年(一九三九)四月、明治以降最初の宗教団体統制の「宗教団体法」が公布された。この法令は神社神道以外の全宗教を届け出制で管理するもので、教派神道神社、寺院仏閣、礼拝堂には一人の専任の教職管理者をおくことを要求し、その条件を満たさないものは認可しない方針であった。

 この法令は、昭和十六年から施行され、仏教は全二八宗派に大統合された。大勧進、大本願、院、坊は各住職を管理者とする届け出をおこない、それぞれが宗教法人となった。しかし、善光寺は宗派のない寺院であり、専属の住職が無く、大勧進と大本願、院、坊からなる善光寺一山の僧侶により奉仕運営管理がなされていた。

 そのため、新たに善光寺住職を定めることは、江戸時代からのいきさつと、明治時代になってからの一山諸制度の変革の歴史からみて、大勧進貫主、大本願上人のいずれかを善光寺住職に推すのはむずかしい選択であった。この難問の解決にあたったのは、昭和十七年新設の善光寺事務局長に就任した山口菊十郎であった。山口は善光寺本堂に七日間こもり、如来のお告げを受けたとして、大本願上人大宮智栄を善光寺住職に推した。参事会の賛成も得て発表したのは昭和二十年七月のことであった。敗戦となり「宗教団体法」は廃止された。

 昭和二十一年の「宗教法人令」施行で宗教団体の統制が解かれ、一寺院に諸教派が関係する場合は対立をさけるため「一人ないし数人の住職をおく」という規制が定められた。二十一年五月十七日付け(『信毎』)の記事によると、善光寺は、新法令に対処し寺院規則改正のため五月十一日に「参与会」と大勧進・大本願信徒総代の合同会議を開催したが、両寺院の代表者が対立した。二人住職制になるとどちらの住職が上席かという議論もおこなわれ、解決は六人の小委員会にゆだねられた。この小委員会の調整から、善光寺住職として大勧進貫主と大本願上人が住職として長野県に届けられた。


写真95 参詣者の絶えることのない善光寺本堂

 昭和二十六年四月三日公布の「宗教法人法」は「宗教法人令」を内容的に整備し、宗教団体のよりいっそうの把握をおこない、認証された宗教団体は登記する事が義務づけられた。宗教法人法は宗教団体に三人の責任役員をおき、そのうち一人を代表役員とする規定があった。これに対応するため宗教法人「善光寺」は大勧進貫主と大本願上人を責任役員にすることは異論のないところであったが、もう一人の責任役員を誰にするかで難航した。『信毎』は昭和二十七年七月六日に「残る一人が微妙」という記事をかかげた。これによると三人目の役員に長野県知事、長野市長を推す動きのあること、東京方面から大物を招聘する説が浮上していると報じた。

 宗教法人の認証申請書類は、大勧進東伏見慈洽と大本願大宮智栄の連名で提出された。添付された宗教法人「善光寺」規則の第六条には、本規則施行後は善光寺事務局長を代表役員とすると規定されている。昭和二十八年八月二十七日に長野県の認証がおり、九月十五日に宗教法人の登記が完了した。この規則により初代代表役員に若麻績貫保事務局長が就任した。事務局長(現在は事務総長)は善光寺一山から二年任期で選出されるが、代々代表役員に就任して現在にいたっている。

 戦災にあわなかった善光寺の院坊は、昭和二十三年四月の段階で住宅不足解消のため、長野市の住宅委員会から住宅としての開放をもとめられ、仏事との関係で苦渋の選択をせまられた。翌五月末に長野市旅館組合が院坊から「遊興税」を徴収する意見書を長野県に提出した。一山の反対があったが長野県の裁定で遊興税の徴収がおこなわれた。また、長野市は昭和二十五年十一月に、本堂、庫裏をのぞく院坊の信徒の宿泊スペースに、固定資産税を課税する事にした。

 戦争で供出されていた長野駅前の「如是姫」像が復元され、昭和二十三年十月一日に除幕式がおこなわれた。また、同十月二十六日に「善光寺納骨堂壁画」が完成し、同年十二月五、六日には大本願で釈尊成仏会の法要が開かれ、インドの衣装を付けた少女の美しい踊りも加わり、しだいに戦争の影がうすれていった。

 昭和二十五年五月には婦人対象の「信仰と修養の会」が大本願に結成された。婦人の信仰の涵養とレクリエーションを目ざすものであった。

 「善光寺保存会」は明治三十九年(一九〇六)に設立され、善光寺の営繕、保存のために資金を集め、それを善光寺に提供してきた財団法人であった。宗教法人令で善光寺が法人格をもったので、昭和二十五年(一九五〇)十二月善光寺事務局は保存会の仕事を善光寺事務局に移管することを、「保存会」に申しいれた。『信毎』の昭和二十六年二月二十二日の記事によると、保存会の評議員会は善光寺の営繕は、経験と組織をもつ保存会に一任して欲しいという意向であり、善光寺事務局と対立した。信徒総代が妥協案をつくり、善光寺が営繕局を設置し、保存会理事長が局長に就任し、保存会の事業と二十人の職員は善光寺事務局に移し、保存会の権利と義務は漸次善光寺事務局に移管することで円満解決した。これで善光寺保存会は五〇年の歴史の幕を閉じた。


写真96 雪の日の雲上殿納骨堂

 昭和二十六年になると盂蘭盆会(うらぼんえ)の様相も様がわりした。かつては七月三十一日夜に善光寺本堂にお籠(こも)りして仏(ほとけ)を連れかえるのは年配の善男善女で、お焼きを食糧に持参したので「焼き餅道者」とも呼ばれていたが、世相を反映して若いアベックが籠(こも)るようになったと『信毎』は報じている。

 また、昭和二十六年九月には、釈迦の生地インドから日印友好親善のため「白牛」三頭が善光寺に贈られた。聖白牛として東京都内を練りあるいた後、軽井沢から長野県入りし、牛にゆかりの小諸での歓迎法要がおこなわれ、九月十日には長野市に到着した。中央通りを練りあがり、善光寺に到着し牛王殿に入った。牛王殿建設資金は全国から募金された。しかし、この白牛の飼育費用はかなりの高額となるので、長野市民の寄付で飼育するキャンペーンが張られた。大本願の出開帳に白牛をともなうことの是非や、牛の色が黒くなり始めたとか、白牛がクリスマスイブに子牛を安産し、その乳でビスケットをつくって売る案がでるなど、なにかと話題の多い白牛であった。


写真97 インドから善光寺に贈られた白牛 (丸山孝四郎提供)

 善光寺大勧進は昭和二十六年十二月に天台宗大本山に昇格した。天台宗の宗務規則改正で大勧進住職は天台宗の宗務会議ではなく、大勧進で決定することができることになった。昭和二十七年の三月には善光寺信徒会が新たに誕生し、一〇人の信徒会代表が選出された。大勧進と大本願にはそれぞれ五人ずつの信徒総代がいるので、それと新たな善光寺信徒会代表の関係をどうするかが問題であると、二十七年三月十七日の『信毎』は報じている。

 昭和二十七年十月三日、須坂市と長野市を会場に第二回「世界仏教徒会議」長野大会開催のため、ビルマ、インド、ベトナム、カンボジア、ラオス五ヵ国の代表一一人が長野入りした。大会委員長は信濃毎日新聞社長小坂武雄で、当夜は長野市長松橋久左衛門の招待晩餐会が開かれた。十月四日に「世界仏教徒会議」は平和宣言をおこない、善光寺本堂で「万国戦争犠牲者並びに会員各家先亡精霊供養大法会」を善光寺一山総出仕でおこなった。この日はまた、城山会場で世界仏教徒会議提唱の「世界仏教徒青年連盟」の下部組織である「長野県仏教徒青年連盟」結成大会が、青年僧、青年仏教徒約一〇〇〇人の参加でおこなわれ、つづいて「長野県仏教大会」が同城山会場でおこなわれた。