昭和二十二年(一九四七)四月一日、長野市は市制施行五〇周年を迎えた。敗戦の痛手はいまだ癒(い)えず、人心もまだ安定しない社会情勢のため、記念行事はおこなわず、わずかに記念式典を挙行するにとどまった。しかし、敗戦から三年を経過し、なんとか世情が安定してきた昭和二十三年には、戦後の産業も変化と発展のきざしをみせていたので、長野県産業と文化を天下に紹介しようという機運が生じ、長野県産業を一堂に集めて展示し、これによって平和日本と文化国家建設に資するという計画がうまれ、「長野平和博覧会」が立案された。博覧会の予算には約一億円が計上された。
博覧会の計画は昭和二十三年五月二十三日に、長野市議会協議会で松橋久左衛門市長から市議会にはかられ、六月から市議会各部の委員長を調査委員として調査研究がおこなわれた。長野市は横浜市の「日本貿易博覧会」や宇治山田市の「平和博覧会」を調査し、建設省と商工省(現通商産業省)の了解をもとめたうえ、八月二十日の定例市議会に博覧会開催の同意をはかった。市議会は満場一致で開催を決定し、市はすぐさま長野県と長野商工会議所に共催を要請した。物資が統制されていた時代であったので、商工省に資材の配給を申請し、八月三十日に建設省の博覧会開催の許可を得た。ここに博覧会準備は始動した。
長野市は長野県庁、軍政部、商工会議所と連絡をすすめ、九月十三日に平和博覧会実行組織の発会式をおこなった。総裁に林虎雄長野県知事、会長に松橋久左衛門長野市長、副会長に長野市議会議長兼長野商工会議所会頭笠原十兵衛が就任した。この日、つぎのような「言言」が公表された。
昭和二十四年は終戦第四年に入り、国家再建のために全産業の復興に全力を傾倒すると共に平和精神の徹底による国民道義の昂揚に努めもって外資の全面的導入体制を整え、生産の一大振興を期せねばならぬ重要な年である。此のときにあたり我が県都長野市に一大平和博覧会の開設を決定し、本日ここに実行組織の発会式を挙行するに至ったことはまことに欣快にたえないところである。
これを機に外資の導入をはかるという本音が、この宣言にみえている。産業の復興をはかりたいという市民の願望がこの平和博覧会の開催であった。会場は城山を中心に設備することになり、起工式は二十三年十月二日におこなわれた。迎賓館と大会会場は城山館と蔵春閣を当てることにしたが、二十四年二月六日の払暁に火災にあってしまった。そこで城山館は市費で、大会場は博覧会費をもって建設することにした。
長野市は、長野県会に共催の要請をしたが、この審議では南信側の議員から反対意見が強力にだされ、二十三年十月二十四日の県会は流会した。しかし、十一月五日の県会でようやく博覧会の共催が同意された。
会場は第一から第三会場に分かれていた。第一には国産館、長野県特産館、機械館、科学発明館、児童文化館がつくられ、さらに、テレビジョン館、野外演芸場、大会場が増設された。第二会場は観光館、保健衛生館、美術館、農業館があり、第三会場には宗教館がつくられた。このほかに蚕糸繊維館が建設された。また、開幕寸前になって長野市公民館を改装してアメリカ文化館がつくられ、模型機関車を走らせる子どもの国も誕生した。
昭和二十四年は善光寺の開帳にあたる年であり、参拝客と博覧会の観客が同時に来長するので混雑が予想された。平和博覧会は一〇〇万人の観客を誘致するため、昭和二十三年九月には大本願明照殿を会場に、長野鉄道管理部の担当職員のほか東京鉄道管理局、新潟鉄道管理局、名古屋鉄道管理局、仙台鉄道管理局の運輸主任が加わり、輸送方針や臨時列車の運行に関する会議を開催した。この会議には長野電鉄・川中島バス・日本交通公社等の関係者も多数参加した。
平和博覧会は、昭和二十四年四月一日午前一〇時三〇分から野外演芸場舞台で開会式がおこなわれ、スミス軍政部長代理のセーヤー大尉をはじめとするCIE関係者、商工省政務次官、農林省政務次官等が来賓として列席した。開会式後の正午に松橋長野市長(博覧会会長)が博覧会の開会を宣言し、六一日間の博覧会が始まった。
開帳と平和博覧会を当てこんで市内五ヵ所に三〇〇軒の商店が開店を準備し、国鉄は長野工機部でミニチュアの列車をつくり、会場で子ども列車を運行する準備を始めた。蚕糸繊維館は新しい蚕糸のあり方や民間の改良が、パノラマ展示された。農業館は農機具の展示のほか、バターの製造実演と販売をおこなった。科学発明館は通信局や測候所が種々の実演をおこない、東芝が「心電図」を展示した。児童文化館は新しい学校の模型やアメリカ児童の生活が紹介され、信濃毎日新聞の「新聞ができるまで」はスライドで展示と説明がおこなわれた。テレビジョン館には二〇〇万円を払って借りうけた東芝のテレビジョンで、野外劇場の実演を放映した。
野外劇場では毎日のように演芸がおこなわれた。開幕日には地元の花柳万里助、花柳徳助、藤間千代枝社中が合同で開幕ページェントを繰りひろげた。四月十六日には小唄勝太郎が出演するなど、有名芸能人がズラリと出演している。博覧会開催日の四月一日には善光寺の前立本尊遷座式がおこなわれ、善光寺の開帳もスタートした。
博覧会と善光寺開帳のセットで一日一万人誘客を見こんだが、実際はそれほどの人出がなく、博覧会事務局は誤算に頭をかかえることになった。四月下旬は花見の季節でもあり人出は回復したが、入場者は予定の半分であった。しかし、最終的には開帳も平和博覧会もほぼ黒字で終了した。
平和博覧会の会場の建物はそれぞれ取りこわされたが、宗教館は雲上殿敷地内に永久建築として建設されたのでそのまま残された。物資不足の時代であり、主要建物の木材は長野市東部中学校の校舎建設や市役所庁舎の改築などに用いられた。