国家主義的人物の公職追放(通称ホワイトパージ)が始まったが、その追放政策が定着していく前に、中国大陸における国民党の敗北で毛沢東の共産主義国家が成立し、昭和二十五年(一九五〇)六月二十五日朝鮮戦争が勃発すると、組合活動家を中心に左翼的人物の追放(レッドパージ)が始まった。進駐軍の政治姿勢が転換したが、民衆の中には漠然と中華人民共和国の成立で、日本でも革命の近いことを予感するおもいもあった。
新制高等学校の文化祭でも、スウェーデンのレジスタンスを主題にした「月の出」が上演され、朝鮮戦争下では共産党が非合法化され、機関誌『赤旗』は発行禁止になっていたが、秘密印刷された『赤旗』が、高等学校の教室まで密かに持ちこまれ、回し読みされる状況であった。
地域の青年団は神社や小学校の講堂で盛んに演劇を公演した。政治色の強いものばかりではなく、菊池寛の「父帰る」などが好んで上演された。青年団の演劇上演について、敗戦から一年後の昭和二十一年九月六日の『信毎』は、「町や村の各集落にまで素人演劇の興隆が見られるが、この素人演劇の正しい発展は観客大衆の批判によって民主化され、健全娯楽とならねばならない」という、論説をかかげた。
昭和二十三年になると労働組合内の演劇班が活動し、「長野工機部」と「長野機関区」の演劇班が、全国国鉄演劇コンクールに長野県代表として出場した。農村部では若槻地区の「若草演劇研究会」が進歩的な演劇を公演し、市街地では「新潮座演劇協会」が指導的な役割をになった。疎開をしていた阿木翁助、水品春樹・加衛子夫妻や木村太郎、藤岡堯などが演劇学校を開いたり高校の演劇班の指導をし、長野市の演劇水準はいちじるしく向上した。
日本放送協会(NHK)は戦時色を脱却して、民主化された放送を送りだしていたが、町の声を聞く街頭録音や「素人のど自慢」などの聴取者参加番組が、民衆に迎えられた。
昭和二十六年現在の長野市域の映画館は、篠ノ井劇場、松代劇場、演芸館、相生座、中央劇場、活動館、千石劇場、千石小劇場、商工会館、吉田映画劇場の一〇館であった。中央劇場は昭和二十三年に長野市営として開館されたが、翌二十四年十二月から株式会社に移管された。洋画専門館の千石劇場は昭和二十五年十二月に開館し、小劇場は二十六年二月に落成した。
洋画専門館の千石劇場ができるまで、活動館はナイトショーの営業をおこない、外国の名画を上映した。「カサブランカ」、「美女と野獣」、「望郷」などの名画がナイトショーで上映された。
昭和二十五年二月四日の「素人のど自慢」には三二〇〇人もの人が城山小学校につめかけた。また、二十六年五月には「誰の言葉でしょう」の公開録音が山王小学校でおこなわれ、さらに、昭和二十七年三月十一日のNHK人気番組の「とんち教室」公開録音は城山小学校でおこなわれ、三三〇〇人の人が集まっている。
昭和二十一年には一万二〇五六世帯であったラジオの聴取世帯は、昭和二十三年には一万三八〇九世帯へと増加した。実際にラジオを聴いていた聴取者は二十三年五月現在で二〇万一〇八人であった(『信毎年鑑』)。
ラジオの聴取世帯は昭和二十六年には一万八〇〇〇世帯まで増加し、聴取者はゆうに三〇万人をこえる状況となった。この状況と相まって、民間放送として信濃放送の設立運動が始まった。受信の範囲は長野県北部から新潟県上越地方までおよぶので、新潟県高田市も設立に協力し、会社名は「信越放送」となった。
信越放送は昭和二十六年(一九五一)十月十八日に予備免許がおり、さっそく長野市吉田に放送局の建設をはじめ、よく二十七年三月二十五日に開局した。番組は朝日放送、ラジオ東京、中部放送などと提携し、加えて農村向けの番組に重点をそそぎ、農協の時間を設けるなど、ローカル放送の特色を発揮した。
全県的な美術展も敗戦後ただちに開催され、二十一年十月から十二月にかけて、長野県と信濃毎日新聞社の共催で第一回「信州美術展」が長野市ほか六市で開催された。第一回県展の油絵部門の県展入賞者六人中に、被占領時代を象徴するようにダン・カーテンという外国人がいた。
二十二年九月には、第二回の「信州美術展」が長野県農業会と信濃毎日新聞社の共催でおこなわれ、長野市城山の商品陳列館で展示の後、松本市ほかで展示された。作品は日本画、油彩・水彩・版画、彫刻、工芸の四部制で、審査には伊東深水、石井柏亭、中川紀元、小山敬三などそうそうたる大家が当たっている。また、長野市安茂里の杏の花の写生画展示の「パレット祭」は、敗戦直後から始まっていたが昭和二十四年五月には第三回をむかえた。