戦後、教育の民主化により、学校体育の変革が始まった。軍国体錬の名残(なごり)にとまどう各校にたいし、文部省は昭和二十一年(一九四六)六月、体操における号令、礼、行進等について、「それ自体を訓練目的とする場合はいけないが、非教練的な方法によれば良い」との具体的な見解を示した。訓練主義・鍛練主義の体操から個性尊重、民主的人間形成をねらいとした学校体育への出発である。
戦後のスポーツによる社会復興の目標になったのが、二十一年から日本体育協会により始められた国民体育大会(以後、国体)である。これにより、各種競技団体や学校の体育クラブ活動も活発になっていった。長野市体育協会の昭和二十三年度行事計画(表45)によると、一年を通し、さまざまな競技の大会が開かれている。二十四年には長野県高等学校体育連盟が結成され、多くの高校が対外競技に参加していった。
昭和二十一年一月に、朝日新聞は全国中等学校野球大会の復活を発表した。同年七月二十五日長野県予選が開かれ、一九校が参加した。翌二十二年三月三十日、全国選抜中等学校野球大会が昭和十六年以来六年ぶりに復活し、同年五月二十一日には野球統制令が廃止された。二十三年新制高校発足、長野県高等学校野球連盟が誕生し、第三〇回全国高等学校野球大会を目ざして、市内でも対抗試合が盛んにおこなわれた。
新制高校になって活躍したのが、長野北高校(現長野高校)である。昭和二十四年六月十二日、第二回中部八県高校野球大会で優勝。全国大会予選優勝は、大正十年(一九二一)以来二十八年ぶりであった。翌二十五年秋の北信越五県高校野球大会でも優勝した。
昭和二十二年四月、国民学校高等科が新制中学校となり、軟式野球が復活したが、戦前の小学校で盛んであった硬式野球は復活しなかった。これは、発達段階にある中学生の体格・体力への配慮、危険性、経費などの理由が指摘されたからである。二十五年六月十日には、公民館・市内中学校長会主催、第三回少年祭りが市営球場で開かれ、市内各中学校から男子野球一チーム、女子バレー二チームずつ出場し、リーグ戦をおこなっている。
青年野球は地域での復活も早く、昭和二十一年八月十四日には、松代象山倶楽部主催、更埴軟式野球大会が開かれ、お盆の三日間四一チームが熱戦を展開した。全県レベルの大会としては、昭和八年から中断されていた全信州青年野球大会の復活が、二十一年九月信濃毎日新聞社の事業計画として発表された。同年十月十九日から三日間、第一三回大会が城山市営球場、長野商業高校グラウンドで開かれ、軟式一六チーム(うち一チーム棄権)が参加したが、篠ノ井野球協会、長野機関区は一回戦で敗退した。翌二十二年九月十二日の第一四回大会からは硬式・軟式の部ができた。
二十四年九月十六日の第一六回大会(日本社会人野球協会県支部・県軟式野球連盟・信毎主催)は、歴史的役割を果たしたとして、大正九年以来つづいた最後の大会となった。軟式(地区代表)・硬式(推薦)各八チームが熱戦を展開し、軟式では長野機関区、長野管理部が健闘し、硬式では長野工機部とともに参加した第一法規が優勝している(表46)。なお、昭和十七年(一九四二)を最後に中断していた都市対抗野球は、二十一年八月第一七回大会として再開されたが、長野は信越予選すら通過できなかった。
大衆スポーツとして野球の人気が高まっていくなか、昭和二十七年五月八日市営球場では、プロ野球セントラルリーグの国鉄対大洋、国鉄対巨人二軍戦(長鉄局スワローズ後援会主催)が開かれた。入場料は大人前売一二〇円(当日一五〇円)、子ども前売五〇円(当日八〇円)、指定席二〇〇円であったが、多くのファンで球場は埋められた。
庭球の復活も早かった。昭和二十一年十月五日、六日、全国軟式庭球甲信越予選が須坂高女で開かれ、六二チームが出場し、女子中等で松代高等女学校が優勝、男子中等学校では長野中学校、女子一般では松代クラブが二位になった。二十二年三月には県軟式庭球連盟が結成されていた。
長野市は二十七年四月二十七日、市民のための市営庭球コート三面を、総工費三六〇万円で城山に完成させた。使用料は一人一日五〇円、半日三〇円であった。同年十月二十三日、第一回信越軟式庭球大会(公民館・信濃毎日新聞社主催)が開かれ、五〇〇余人の参加という盛会で、大正期の連合青年庭球大会、全信州女子庭球大会の復活の意味をもつ大会といわれた。
戦後、いち早く水泳自由形世界記録をつくった古橋広之進の活躍は、人々に夢と希望をあたえた。長野市営プール(山王小学校西側)では昭和二十一年八月十八日、北信学生水上競技大会(野尻湖游泳協会主催)が開かれ、オリンピック選手遊佐正憲(自由形)、清洲正三(背泳)、小池礼三(平泳)が妙技を公開し、指導にも当たっている。水泳界のホープ古橋広之進が市営プールに招待されたのは、二十三年六月三十日の水上大会である。古橋をはじめ日大水泳部九人による指導が、長野商業高校はじめ七高校で水泳部員を対象におこなわれた。
市営プールは大会のためだけでなく、市民の憩いの場としてもにぎわい、銭湯がわりに利用していた子どももいた。プール入場料は、二十二年当時子ども一日三〇銭で、二十三年には約三倍の子ども一円、大人二円、銭湯は五円であった。二十六年には全国勤労者水上大会に備え、五〇万円をかけて改修がおこなわれ、更衣室、スタートナンバー等が整備された。このころの入場料は子ども三円、大人五円となっていたが、それでも全国一安かった。
二十七年三月長野市は、数年間に市内全九小学校にプールを作る計画を発表した。市営プールが超満員で非衛生的であるばかりか、市の東部、北部の子どもたちが遠すぎて利用できないからである。二十二年から始まった長野市民水上大会(長野市・公民館・市体協主催)も、二十七年八月十七日には第六回目を迎え、約三〇〇人が参加するにぎわいをみせた。子どもたちのりんご取り、すいか割りの余興もあり、大会の結果では上位から、団体男子は第五、吉田、芹田が、女子は芹田、第二、第三地区の順であった。
伝統の長野県縦断駅伝競走が二十七年に始まり、飯田・長野間(一八四・九キロメートル)一五区間を一四チームで競った。同年十月二十三日には第一回上水内郡縦断駅伝が開かれ、柏原・栄(中条)村間(五六・八キロメートル)を一九ヵ村二百余人で競い、朝陽村が一位、柳原、小田切、芋井が同着四位となった。駅伝はこのころから全県下に広まっていった。
軍政部により日本初のスキーリフトが志賀高原につくられたのは昭和二十二年一月二十四日で、各地に影響をあたえた。さらに、二十五年六月の朝鮮戦争勃発による特需景気によりスキーの大衆化が始まっていた。長野市でもこのころには、大座法師池下の飯綱入坂(にうざか)スキー場で、市民スキー大会(公民館主催)が開かれている。スケートは、二十二年に県下中等学校スケート大会が始まり、二十七年には国体予選がおこなわれるようになる。そして、同年田子池(若槻)において、全信州スピードスケート大会が開かれていた。
武道のなかで唯一学校体育として認められた相撲(すもう)は、基礎体力づくりとして取りいれられ、昭和二十二年には、県相撲連盟が結成されていた。柔道は当初警察、刑務所では認められており、二十二年十月には戦後初の大会として南北信対抗大会が菊田劇場で開かれ、北信が勝っている。二十六年からは県内四地区対抗大会となった。さらに、二十五年には学校でも許可され、二十六年には県柔道連盟ができ、二十七年、二十九年、三十四年の長野県高校選手権大会では長野商業高校が優勝している。このころには、緑町の個人道場修道館(新井銀右衛門)で柔道を習う女子もでている。剣道も二十六年には許可され、翌年には県剣道連盟が結成された。
二十六年四月十五日には、長野鉄道工場内弓道場で第一回近県弓道選手権大会(県弓道連盟主催)が開かれ、東京、愛知、静岡あたりからも多数参加し、総勢一三〇人におよんだ。若手より四〇歳以上のベテランの成績がよかった。苦難の武道も、戦後は大衆スポーツとして広がっていくことになった。