町村合併促進法にもとづく県(地方事務所)作成の合併計画案によれば、更級郡下の現長野市域町村ブロックは、①篠ノ井町・信里村・共和村・中津村・御厨村・川中島村の六ヵ村、②稲里村・真島村・小島田村・青木島村の四ヵ村、③信田村・更府村の二ヵ村であった。合併促進法期限の三十一年(一九五六)九月三十日までに、更級郡下では、篠ノ井町への合併をはじめ、新たに川中島町、更北村、信更村が設置されたが、いずれもほぼ計画案にそった合併となっている(表1)。
篠ノ井町では、合併促進法のでる以前、昭和二十四年ころから隣接の東福寺村が新制中学校問題でゆきなやみ、二十五年一月村民の総意として中学校組合立合併を申しこんできた。篠ノ井町でも中学校問題だけでなく自治体財政の確立のためにも、合併は必要として回答した。
この動きをみた隣接の川柳村にも参加の動きがおこり、同年五月には、三町村の合併決議書を県会へ提出した。その後、川柳村で反対の署名運動がおこり、六月住民投票となったが賛成が多く、昭和二十五年七月一日篠ノ井町・東福寺村・川柳村は合併した。
共和村は、中学校特別教室の建設とその資金問題でゆきなやみ、昭和二十六年ころから篠ノ井町との合併が考えられていたが、昭和二十八年一月篠ノ井町へ合併の申しいれをした。これをうけて篠ノ井町も同年六月共和村へ合併を申しいれた。その後、共有林問題で共和村小松原犀口地区から合併反対論がでたが、二十九年六月には合併が本決まりとなり、昭和二十九年七月一日共和村は篠ノ井町へ合併した。
信里村は、当初上水内郡七二会村と篠ノ井町の両方から合併の呼びかけをうけていた。ところが、北部の犀川べりの地区は七二会村や更府村との合併を望み、南部の篠ノ井町に近い地区は篠ノ井町への合併を希望して、意見は分かれていた。その後、合併促進協議会が発足し調停工作や協議がすすめられ、全村一致で昭和三十年四月一日篠ノ井町に合併した。
篠ノ井町は、共和村や信里村との合併をすすめるころから川中島村や昭和村・中津村・塩崎村、さらには稲荷山町・八幡村等をふくめた市制施行への発想もあったが、川中島町や更北村の設置でながれていた。
国は、昭和三十一年六月三十日町村合併促進法の期限切れに備えて、「今や、大勢は町村合併から新市町村建設の段階になった」として、新市町村建設促進法を公布、即日施行した。これは新市町村の育成発展の方策を示し、町村合併にともなう争論の合理的処理と未合併町村の合併を強力に推進するため、さらに知事や内閣総理大臣の勧告権を規定して、町村合併の総仕上げをおこなうというものであった。期限は昭和三十六年六月三十日までとなっており、これまでの町村合併促進法と合わせて、この間の町村合併は「昭和の大合併」と呼ばれている。この新市町村建設促進法の刺激もあって、新たに篠ノ井市建設の動きが活発となった。
昭和三十一年九月、更級・埴科両郡の郡境をこえた合併論争のなか、両郡の県会議員五人と埴科郡八田恭平・更級郡山岸保の両町村会長は、県議会議長に「県は速やかに行政機構改革と合わせて、県下における郡の統合をはかるよう」要望した。理由は、①合併によって町村数がいちじるしく減った現在郡を単位とした機構は不合理である、②合併の進展と県の機構改革に合わせ郡の統合をおこなう必要がある、の二点をあげ「これによって国費・県費の節約と、郡境を越えての合併が円滑にすすむとしている。それほど郡境をこえた町村合併は複雑で困難をきわめていた。
同年十二月には、塩崎村が篠ノ井町と稲荷山町へ二町一村の大同合併を申しいれ結論がでないなか、三十二年八月一日には、郡境をこえた埴科郡松代町の川西地区が、複雑な経緯を経て篠ノ井町へ境界変更された(この詳細は次の「埴科郡松代町と周辺六ヵ村の合併」で記述)。
三十三年四月五日、国は市制施行について地方自治法の一部を改正し、「同年九月一日までに申請がおこなわれた場合の市の人口要件の特例を定める」とした。つまり規定の人口数に幅をもたせたのである。
これによって同年六月十四日篠ノ井町では、青年団・婦人会その他各種団体長らが、篠ノ井市制促進委員会を結成した。これが以後推進力となって、塩崎村・川中島町・更北村・埴科郡松代町に合併を呼びかけ、人口七万六千余人の市制実施をもくろんだ。同年七月十四日篠ノ井町・塩崎村の理事者と議員で、初めての正式懇談会を開き「市制研究協議会」を結成し、会長に塩崎村の倉石村長が選ばれた。
いっぽう、三十三年八月中旬埴科郡でも、屋代町・埴生町と更級郡稲荷山町・八幡村の四ヵ町村が合併して更埴中部市制施行の動きがおこり、塩崎村は稲荷山町と篠ノ井町の双方からの呼びかけとなり、村の北部は篠ノ井派が、南部は稲荷山派が多く、村の中央部が動向を決めるポイントという状態となった。しかも、篠ノ井町・稲荷山町双方への回答は早急な態度決定をせまられた。すでに特例法の期限はきれたが、九月二十五日塩崎村会は全員協議会を開き記名投票をしたところ、篠ノ井市一二票、更埴中部市四票(『信毎』、ただし『更級埴科地方誌』では三票)、現状維持三票となった。ここで投票の結果は一応篠ノ井市への参加となったが、その後、①塩崎村長の合併一時見合わせの発言、②南部地区住民約一〇〇〇人の反対総決起大会と役場隣接の公民館に自治村役場を設けての反対気勢、③村長欠席による議員提案と助役の職務代理による審議での賛成多数の原案可決、④この議会開会中に反対派約一〇〇〇人の役場おしかけにたいする警官の出動、⑤村議会解散をめぐる紛争など、妥協困難な紛糾がつづいた(『信毎』)。
県は、この紛糾の状況から篠ノ井町・塩崎村からの資料により、総理大臣あてに篠ノ井市設置の申請をだした。十二月に入って自治省の調査が入ったが、この間にも対立はなおつづいた。同月二十二日県の総務委員会は、自治省の次官通達を尊重して「合併後も反対地区住人の要望をじゅうぶんいれるように」との意見をそえて、篠ノ井町・塩崎村の合併による市制設置案を原案どおり認めた(『更級埴科地方誌』)。
その後、塩崎村長および村長委嘱による五人の調停委員の努力によって、両派の和解工作がすすめられ、三十四年二月二十日に調停が成立して、長い間の紛糾はようやく解消をみた。これにより昭和三十四年五月一日、篠ノ井町と塩崎村は合併して、篠ノ井市制が施行された。
川中島村は、中津村・御厨村と昭和二十四年から組合立川中島中学校を設立しており、さらに共和村を加えた地域の合併が考えられていた。しかし、共和村は、二十九年七月篠ノ井町へ合併し、中津村・御厨村も三十年四月一日合併して昭和村となっていた。川中島村は昭和村に合併を申しこんだが、合併直後でもあり時期尚早の意向を示した。川中島村は、なお、三十年九月三十日合併促進法の期限ぎれ前に、町制施行の合併を完了したい旨申しいれた。これをうけた昭和村でも研究協議の結果、期限内の合併に踏みきることになり、昭和三十一年九月三十日合併促進法の期限ぎりぎりに両村が合併して、新たに川中島町が設置された。なお、この川中島町設置の翌三十二年四月一日、篠ノ井町小松原地区の一部が川中島町へ境界変更された。
稲里村・小島田村・青木島村・真島村の四ヵ村は、昭和二十六年から共同して組合立更北中学校を建設して親近感を深めていた。県の二十八年合併案も、この四ヵ村を適性規模として合併促進を可としていた。しかし、真島村には、この四ヵ村合併のほか長野市との合併案や、同じ意向をもつ青木島村への働きかけの動きなどがあり、必ずしも単純にはすすまず二十九年四月一日に予定していた四ヵ村合併案は流れた。その後も真島村では長野市との合併見直しが論議されたが、村内の意向がまとまらなかった。他の三ヵ村は終始真島村をふくむ合併を主張して調整促進にあたった。その結果、二十九年十二月一日の合併協議会では、各村とも一致して四ヵ村合併議案が可決され、昭和三十年一月一日新たに更北村が設置され、総人口一万二四一九人は県下最大の村であった(『更級埴科地方誌』)。
信田村と更府村は、昭和二十二年新学制実施当時から組合立中学校を設置して、合併問題も両村関係者によって研究されていた。しかし、村内の一部に近接の大岡村・日原村・信級村および上水内郡津和村・水内村を加えた合併の意向がだされたが、二十九年四月津和村・水内村が合併して久米路村(同年十月新町と改称)となり、さらに日原村・信級村がこれに加わって三十年三月信州新町となってしまった。その後、信田村では塩崎地区への合併と、更府村への合併に二分されたが、全村をあげて更府村との合併を促進する意向で研究や調整をおこない、たびたびの議会延長などあったが審議の結果、三十一年三月十日全村一致で更府村との合併を決定した。
更府村でも、犀川対岸の上水内郡七二会村への合併と信田村への合併に二分されており、事態はさらに研究を要するということで審議は延長されていた。
この間に、県議会議員や地方事務所長などの意見により「将来境界変更を要する事態になった場合は民意を尊重してその実現をはかる」という条件付きの収拾案もだされたが、不成功に終わった。このようななか、合併促進法の期限切れを半年前にした三十一年三月十一日ようやく信田村との合併が議決された。
同月の県議会では、事態の状況からこの信田村・更府村の合併案を五月県議会まで継続審議の措置として、解決に向けて関係者の努力がなされた。その結果、昭和三十一年六月一日信田村・更府村は合併して信更村が設置された。