上高井郡若穂町の設置

252 ~ 254

昭和二十八年(一九五三)公布の町村合併促進法にもとづく県の合併計画案では、上高井郡保科村・川田村・綿内村三ヵ村は、同一のブロックに入っており、地元でも合併の話はでていた。とくに、三十年四月の村長選挙では、各村長とも「任期内の三ヵ村合併」を公約していた(『信毎』)。しかし、このブロック内での合併の動きはおそく、合併法の期限切れ間近の三十一年三月に「原則的に合併」ということは決まったが、その後の進展は一進一退であった。このころ、現長野市域の各町村合併はほとんど済んでいた。

 同年四月からは各村三役・村議会正副議長・農業委員会長らのメンバーで、①千曲川永久橋の架設、②組合立中学校建設などの共通諸問題が多く、これらの解決には合併が先決という結論がだされた。ところが、その後各村からだされた条件は、それぞれ自村の立場だけを考えたものが多く、しかも、村有財産などで他の二ヵ村と条件のちがう保科村は、八月「いまだ時期尚早」を理由に一応話を打ちきった。この直後、綿内・川田の両村は早急に合併具体案をつくったが、保科村を「入れる・入れない」とか、いっぽう、保科村からは「両村そろっての呼びかけがない」など感情的な対立もあり、一時は綿内・川田二ヵ村の合併かとあやぶまれた。

 この状況をみた上高井地方事務所は、三十一年十二月三ヵ村の村長らを集め合併実現の要請をした。これは事実上の勧告であった。これをうけて三ヵ村は「今までのゆきがかりを白紙にもどして、あらためて合併促進協議会をつくり具体的検討をはじめる」とした。

 三十二年二月六日の合併促進協議会小委員会でも、各村の意見が合わず、会長の調停案として、①三ヵ村合併後は綿内村の希望を入れ綿内町とする、②役場仮庁舎は川田村役場におき、新庁舎は地理的・総合的に中心で交通便利な所を選ぶ、③財産処理については、ひとまず村有財産全部をそれぞれの財産区とし、できるだけ早く精密な調査をして適当にだしあう、④統合中学校の位置は、ほぼ中心で通学便利な場所、などを提案したがまとまらず次回待ちとなった。


写真7 昭和37年当時の若穂町役場

 この間すでに国は、新市町村建設促進法を公布していたが、三ヵ村の合併は、主として役場庁舎の位置問題と村有財産処分の問題で見通しが立たないまま、一年半以上を経過した。

 三十三年十月には、半年後の各村長らの任期満了をひかえて、合併熱が高まり、また、各村民の大勢も「いずれは合併しなければならない」という方向に動いてきた。同年十二月十二日地方事務所で開かれた三ヵ村長・議長の協議会で、重ねて県から合併の実現をうながされ、ようやく意見がまとまった。要点は、①三十四年三月三十一日発足、②三ヵ村は十二月中にそれぞれ合併の議決をする、③新村の役場は綿内・川田両村境付近の旧避病院あとにつくる、というものであった。

 ところが、三十四年一月保科村が役場庁舎位置問題で合併条件の修正を申しいれ物わかれになり、また合併案がこわれた。その後、綿内村は川田村との二ヵ村合併を決議し、いっぽう、保科村でも川田村との合併を申しいれた。これにたいし、川田村議会では三ヵ村の合併を前提に綿内村との合併にふみきった。綿内・川田の両村は二月四日までに二ヵ村合併の議決をおこなった。そして、三ヵ村合併に持ちこむために保科村へ合併をつよく呼びかけた。

 保科村では、連日協議したが結論が出ないため、最終手段として二月十七日村民投票をおこなうことになった。その結果は賛成一〇四四票、反対七三七票であった。これにより二月十八日三ヵ村は、それぞれの議会で合併を議決し、さらに、同月二十三日三ヵ村関係者は地方事務所で細部の協議会をもち、町制施行を決めて新町名を「若穂」とした。「わかほ」は、三村の呼名の頭字を一字ずつとり、これを組み合わせたもので、「若穂の如く伸びゆく」にふさわしい町名を選定したものであった。こうして長い間もめた綿内・川田・保科村の三ヵ村は昭和三十四年四月一日若穂町としてスタートした。人口は一万二一〇〇余人であった。その後、翌三十五年八月一日、綿内地区の十九ヶ塙(つつがはな)集落四戸は須坂市へ境界変更した。