長野市ほか一市三町三ヵ村の大合併

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長野市の近隣数郡におよぶ市町村大合併の構想は、昭和三十七年(一九六二)十月長野市が広域都市の設置をめざして近隣市町村に呼びかけたことからはじまっていた。しかし、本格的に動きだすのは、昭和四十年三月二十九日国が「市町村の合併の特例に関する法律」(通称「市町村合併特例法」)を施行してからである。この法は「市町村行政の広域化の要請に対処し」市町村合併について「関係法律の特例、その他必要な措置を定める」ものであった。

 この法より先、長野市でも交通の発展や産業経済の進展から広域的な行政体制をつくる必要があるとして、近隣の市町村をこえて南は更埴市・上山田町・戸倉町、西は七二会村・戸隠村、北は中野市・山ノ内町・牟礼村、東は須坂市・若穂町などにおよぶ人口四五万人ほどの大長野市の合併構想をもっていた。三十八年二月には、篠ノ井市・川中島町・松代町・更北村・若穂町・豊野町・七二会村の七市町村に呼びかけた。このうち、川中島・更北・七二会については、前回(昭和二十九年)合併の時から長野市への合併を希望した経緯があった。しかし、その他の市町村では、理事者研究会で「基本的には賛成」の声が出されたが、各市町村とも利害関係もからんでまちまちの意向を示した。


写真8 長野駅上空から善光寺方面をみる

 ところが「合併特例法」が施行されると、四十年四月長野市は新たに信更村を加えて、長野市ほか一市四町三ヵ村による任意の合併促進協議会を発足させた。いっぽう、上高井郡須高地区でも、一郡一市の合併問題が活発化して本格的な研究を始め、須坂市が若穂町に合併を申しいれた。

 このような情勢のなかで、長野市は大合併にそなえて新市庁舎の建設をすすめ、早くも四十年十月には緑町にモダンな庁舎が落成した。だが、この大合併案には、革新団体が反対の立場をとり、社会党長野総支部の代表が、四十一年三月市民サービスなどの点で、市民の理解をもとめるべきだと市に申し入れをした。


写真9 昭和40年10月長野市の新庁舎(現本庁舎)完成

 篠ノ井市では、市内商業団体や勤労協などから反対の声もあり、合併問題は休止状態となっていたが、市長はさらに、住民の声があれば検討するとして、四十一年四月下旬に八ヵ所で市政懇談会を開き、積極的に合併に取りくむ姿勢をうちだしていた。


図2 大合併時の長野市域(昭和41年)

 松代町も、同年四月初旬から地区巡回説明会を三〇ヵ所で開き、おおかたは「強力な市に参加した方が有利」との意向で、反対の声はあまり出ない状況であった。

 四十一年五月二日、八市町村の合併促進協議会小委員会は「五月十六日までに各市町村の態度を内定する」ことを申しあわせ、さらに、五月二十八日には、特例法に基づく正式な長野市ほか一市四町三ヵ村合併協議会を発足させた。これはできれば六月県会へ合併案提出を間にあわせるためであった。これにより合併問題はいよいよ大詰をむかえ、焦点は合併時期の問題に移るかにみえた。しかし、各市町村には微妙な問題がのこっており、思うようにはすすまなかった。

 若穂町は、結局住民投票に準ずるアンケート(一世帯一枚配布)をおこなうことになり、五月三十一日実施の結果、賛成一〇五二票、反対一一三六票となり、八四票差で合併の再検討をせまられた。

 六月二十日の合併協会議では、①合併は対等合併とする、②新市の名は「長野市」とする、③庁舎は今の長野市庁舎とする、などをきめた。この日、若穂町は欠席し、豊野町は町長選とのからみで態度決定がおくれ「六月二十六日まで集落ごとの合併説明会が予定されているので、それ前に結論を出さないよう」主張した。しかし、豊野町では、その後も賛否真二つで両派ゆずらず、豊野町合併審議会をつくって決定をまかせた結果、六対四の比率で反対に決まった。更北村も態度決定はおくれていたが、七二会村・信更村・川中島町では、すでに合併の方向でほぼ意向がまとまっていた。

 六月三十日、合併協議会小委員会総会では、①「参加市町村は、七月四日までに合併決議をし、調印のあと県会に合併案を提出する、②新長野市の発足は四十一年十月十六日とする、③豊野町をのぞく二市三町三ヵ村とする、などのことを決めた。この日、豊野町は「時期尚早」を理由に欠席したが、若穂町は、かなり強い町内の反対論を押しきって出席した。そのため、若穂町には根深い対立は残ったが、一般町民の間では、これ以上合併の賛否を争うのは無意味だという批判の声もおきていた。

 七月四日には、関係市町村理事者会でそれぞれの合併調印をおこない、七月十四日県議会でこれを可決、八月一日自治大臣名で新長野市の合併が告示された。これにより長野市・篠ノ井市・松代町・川中島町・若穂町・更北村・信更村・七二会村の二市三町三ヵ村大合併が決まった。合併協議会は、新市の発足を前にあらかじめ「給与の引きあげや無理な予算の執行はしない」という紳士協定を結んでいた。


写真10 昭和41年の2市3町3村合併調印式

 ところが、長野市以外の市町村では、①職員給与の引きあげ、②億をこす大きな補正予算の可決、③道路整備、学校建築予算の可決などをしたため、いわゆる先食い予算の問題がおこってきた。篠ノ井市がとくに俎上(そじょう)にのり、県でも問題に取りあげ「早急に予算の編成しなおし」を強硬に申しいれたりしたが、容易に解決しなかった。しかし、関係市町村の理事者や正副議長らによる強硬な申し入れもあり、さらに、当該住民の間からも非難の声があがるなどして、先食い予算は大幅に修正されたが、合併市町村の潜在赤字が、かなり新市にもちこまれた。

 新長野市は、人口約二七万人で人口順位では、全国五六〇市のうち、これまでの七〇番目から三二番目の都市となり、新市長には夏目忠雄が当選した。