国警察・自治体警察の統合と県庁舎の完成

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警察制度の民主化のなかで、警察当局も日ごろから「愛される警察」をめざしていた。長野市警察署は、昭和二十五年(一九五〇)十月一日から十日までを防犯旬間とし、防犯運動をおこなうとともに、民衆の声を反映させようと、派出所ごとに市民との懇談会を開いた。七日の桜枝町第一支所の懇談会には市民四〇人ほどが集まり、警察官の「オイ、コラ」的な姿勢を指摘し、「まだまだ親切心がたりない」「大道香具師(だいどうやし)をもっと取り締まれ」などと警察への注文を活発にだしている(『信毎』)。

 いっぽう、篠ノ井町では隣接する東福寺・川柳両村との合併が論議され、とくに、東福寺村の篠ノ井町への合併が二十五年七月一日に本決まりとなった。合併後は面積が約二倍、戸数も二〇〇〇戸から二五〇〇戸となるが、篠ノ井町警察署は署長以下一三人で、現状でも手不足であるのに、自治体警察(以下自警と略称)の定員の増加がほとんど認められないとあって、合併実現後の治安上の不安が大きな問題となっていた。

 こうした問題にくわえ、国家地方警察(以下国警と略称)がかつての国家警察の系譜をひくことから統制力を発揮しようとし、いっぽうの自警もセクト的であることから、両者はしばしば円滑を欠くところがあり、さらに、自警では人事停滞からの意欲低下、市町村有力者との癒着(ゆちゃく)という弊害も引きおこしていた。さらにまた、自警をかかえることは、市町村にとってはかなり大きな財政負担になっているとの声もあり、制度改正の動きが高まりつつあった。


写真14 松代町警察署員の特別技能手当(月額)

 昭和二十六年四月、「連休明けの五月国会に警察法改正案が上程審議される」という報が伝わると、松代町と坂城町では、いち早く自警の必要性と警察法改正案が実情を無視した不合理なものであると強調して反対に立ちあがった。両町の警察署は署長以下定員一三人で、一人当たり年一八万三〇〇〇円、合計二三七万円余が計上されている。その大半は平衡交付金にふくまれて政府から補助されており、町村負担はわずか年二三〇万円にすぎず、防犯、治安上でも良い成績を残し、検挙率も旧警察制度当時よりもかなり高まり、愛される自警として使命を十分に果たしていると強調した。とりわけ、松代町では町議会や公安委員会が中心となり、公聴会・人民投票であくまで存置を要望していくとした。しかし、昭和二十六年六月、警察法が一部改正され、自警の廃止が市町村住民の投票で決められることになった。そして同年九月三十日までに廃止決定した場合は十月一日から、それ以降に決定されたものは二十八年四月から、それぞれ国警に移管されることになった。これにたいして、松代町では二十六年六月二十八日に町議会を開き、満場一致で自警の存続を決定した。

 しかし、松代町民のなかには自警廃止の声もあり、廃止賛成町民代表安藤幸公は二十六年八月三十日に消防団長を辞職し、ただちに三〇人余を代理人に委嘱して、自警廃止請求の署名活動に入り、翌三十一日までに一五〇〇人余の署名を集めた。こうしたなか、同月二十九日から開かれた町議会も賛否のうずが大きくなり、四議員の辞職に発展・対立するさわざとなった。町財政の健全化、警察力の充実にそなえて町政の円満発達をはかるべきだということで、大勢(たいせい)は廃止にかたむいたが、結論はださず、九月八日の全員協議会で、先の六月二十八日の存廃議決当時の空気にもどろうという八田町長の提案でしばらく静観することになった。しかし、廃止賛成派は直接請求署名がすでに総有権者の約半数四五〇〇人をこえたとし、廃止への動きをいっそう強めようとした。

 その後、松代町ではそれぞれの角度から検討をつづけた結果、しだいに国警への移管を望む声が大きくなり、ついに二十七年九月二十二日に臨時町議会を招集し、自警廃止を議決し、十月五日に住民投票をおこなうことをきめた。住民投票では総投票数六九六四票、廃止三八八四票、存置二六六三票、無効四一七票となり、自警廃止の火付け役となった松代町での廃止がようやく決まったのである。

 自警廃止がきまると、松代町は一転して下高井郡平隠村や西筑摩郡(木曽郡)上松町、飯田市などとともに、国警移管までの期間弱小自警では治安が心配であり、財政負担もたいへんであるから二十八年一月から国警に移管できるようにと国会や国警に運動していった。この結果、二十八年一月一日付けで自警松代町警察署が廃止となり、これまでの松代町警察署と二十七年四月に「埴科」から名称がえした屋代地区警察署松代警部補派出所の管轄地域をあわせた国警松代地区警察署が発足した。松代地区警察署の開庁式は、二十八年一月八日に埴科郡北部の一町二ヵ村をあげて盛大におこなわれた。当日は午前一一時四〇分から国警音楽隊を先頭に、警官隊、機動隊が市中行進し、午後二時からは中町公会堂で金谷国警県隊長はじめ関係者二〇〇人余が参列して式典を挙行した。町では花火を打ちあげたほか、歓迎アーチを各所に設け、商店街は祝賀大売りだしをおこなった。こうして県下に三七あった自警は一八に半減した。


写真15 日本の独立と地方自治を県民に訴える『県政だより』

 いっぽう、長野市警は二十六年三月に市警察長の大澤健次郎警視が警視正に昇任、また、七月には警備態勢強化としてパトロールカー(無線電話付)三台を配備し、市内巡回にあたるなどし、県都の警察として名実ともに県下の雄たる実をそなえていった。しかし、二十九年六月の新警察法で、同年七月一日からは長野市警をはじめとする残存自警一八署と国警二五地区署が長野県警察本部に統合されて、長野市域には県警長野警察署、同須坂警察署(現若穂地区を含む)、同篠ノ井警察署、同松代警察署がそれぞれおかれ、新たな出発をすることになった。

 長野県庁舎本館は、大正二年(一九一三)に建築されたが、半世紀近くを経過して老朽化し、また、第二次大戦後の行政機構の多様化により、事務量が増大して庁舎がせまくなり不便を生じていた。また、県会議事堂も大正三年に建築されたもので、ともに老朽化していた。そのため、県庁舎と議事堂を合わせて再建の気運がたかまり、昭和三十五年(一九六〇)四月県議会は、県庁舎建築調査委員会を設置し、さらに、同年十二月西沢知事の諮問機関として県庁舎建築調査審議会(県議会議員一五人、県職員四人)を設置して、建設についての審議をはじめた。そして、三十七年には県庁舎敷地の地質調査を企業局建設部に依頼した。

 三十七年九月建築調査審議会は、審議の結論として「改築庁舎は長野市の現庁舎位置とする」答申をだした。これにたいし、県の中央部に県庁移転を希望する松本市など中南信八〇市町村は、「県庁移転新築期成同盟会」を結成して、同年十月知事に「移転新築」を要望した。さらに、十一月には松本市に各種団体の代表者を集めて総決起大会を開いて、各市町村ごとに移転新築議決をおこない、十二月定例県議会での決議を要請することにした。

 いっぽう、このような動きにたいし、長野市を中心とする北信側市町村は、まず、九市の議長会が「県庁舎の移転新築は現実問題としては考えられない。中南信側が十二月県議会に移庁決議をだす場合は、これに対抗する行動をとる」ことにした。そして、十一月二十八日に県庁移転絶対反対市民総決起大会を長野市で開いた。しかし、十二月県議会には、南信側の移庁決議は提出されず、庁舎建築調査審議会もその具体的取りあつかいは、翌三十八年四月の統一地方選挙後に見おくることにした。

 しかし、県議会における県庁移転議決については、地方自治法(第二四四条、三十八年六月八日)の改正で「三分の二以上の賛成を要する」ことになり、また、当時松本諏訪新産業都市の国指定が内定されていたこともあって、三十八年六月県議会では、県庁舎改築と新産業都市などの重要問題を円満解決するきざしがでてきた。七月十一日庁舎建築調査審議会は、現在地に県庁舎を改築することを確認したことにより、県議会筋でも庁舎改築問題と新産業都市問題と並行して解決をはかる気運がでてきた。これにより三十八年八月三十日南北の和解が成立した。

 そこで、九月定例県議会では、十月十二日県庁舎の現在地建築と予算が可決された。総事業費は二六億六〇〇〇万円で、収入内訳は、国庫補助金三八六八万六〇〇〇円(一・五パーセント)・財産収入四億一九六三万三〇〇〇円(一五・八パーセント)・寄付金五億円(一八・八パーセント)・県債一〇億円(三七・六パーセント)・諸収入四二二〇万円(一・六パーセント)・繰越金六億五九八九万六〇〇〇円(二四・八パーセント)であった。

 建築工事は大成建設が落札して請けおい、三十九年五月二十八日に起工式がおこなわれた。この間、旧本館は飯綱高原・塩嶺・木曽駒高原などに分けて移築復元され、県民に利用される記念建築物として残されることになった。

 四十二年二月六日、新庁舎は完成し、十一日から仮庁舎からの引越しを開始し二十日に完了した。落成式は四十三年五月十一日に挙行され、十四日まで一般県民に公開された。


写真16 昭和42年長野県庁本館・県会議事堂完成