刑務所の移転と跡地の官庁舎建設

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長野市旭町に広大な敷地をもつ長野刑務所の移転問題は、戦後間もなくからおこっていた。昭和二十三年(一九四八)ころには犯罪者の拘置がうなぎのぼりに増加し、そのための施設を補充することがもとめられていた。

 法務省は、長野刑務所の拘置所もふくめた移転先をさがしていたが、須坂市の田んぼの中にある海外引揚寮に利用されていた閉鎖軍需工場を候補地にあげ交渉にあたっていた。この施設の所有者である大和産業会社とは話しあいがついていたが、周囲の土地買収をめぐって耕作者との折りあいに手間どり、円満に話しあいがまとまったのは昭和二十五年の暮れであった。

 これにより、二十六年には移転着工の運びとなったが、国の予算により建坪一五〇〇坪(約五〇〇〇平方メートル)の特別模範囚を収容するモデル刑務所に予定変更された。この計画は序々に進行したが、資金ぐりに窮し二十八年にはプランが三転して、長野刑務所の移転ときまった。そこで、二十八年から大蔵省予算で刑務所移転に着工したが、建築の工法について鉄筋か厚壁かの論議となり、結局厚壁になったが、これには普通の建物より倍近くの予算と期間がかかり、このため工事は予想外に手間どり六ヵ年がかりで、昭和三十三年度予算を最後としてようやく完成した。

 こうして、長野刑務所の移転が決まると地理的条件に恵まれた跡地利用の希望が引く手あまたとなった。長野市も以前から、条件さえよければ市で買いあげ総合文化センターを建設する計画を示していたが、いっぽう、建設省もここに目をつけ、中央官庁の出先機関と長野県庁や長野市役所などを一本にまとめ、約六〇〇〇人の役人を収容できる合同庁舎四棟を、総工費二億円で建設する構想が予定されていた。このような合同庁舎が実現すれば、午前は市役所、午後は出張して県庁へ、というような無駄な時間と労力がはぶけることになる。しかし、土地建物がすべて国のものであれば、県庁や市役所などの地方官庁と国との間に問題がおこらないか、についても研究の必要性にもせまられた。

 三十三年八月建設省は、跡地に合同庁舎・法務センター・長野市庁舎・緑地帯などをつくる「長野市一団地の官公庁施設計画」(図5)をつくり長野市にたいし、国の方針に協力して市庁舎建築をすすめるよう、協力方を要請してきた。これにたいし倉島市長は、すでに市庁舎は市内緑町の市民会館予定地に建設することを決めていたので、一応儀礼的に賛意を表明したが即答はさけていた。しかし、跡地については、「市が先に長野財務部工事事務所を通じて土地の確保を申しいれていた経緯もあり、この国の計画は絶好の機会であった。また、国の方針にしたがえば、建設資金の獲得も容易で早い機会に市庁舎の建設ができる。しかし、いっぽうで市民会館や市庁舎を国と同一地点に建設することには市民の批判もあるので、市の公正な発展からは分散してつくることが望ましい」などとしたため、この問題は一進一退であった。


図5 初期(昭和34年)の合同庁舎配置構想図 (『信毎』より)


写真17 裁判所や法務局など国の出先機関をまとめた合同庁舎

 ところが、この市と国との未解決問題が原因してか、国の三十五年度予算では、これまでの計画が見おくりとなり、取りあえず合同庁舎の足がかりとして、拘置所一棟だけが着工されることになった。この拘置所は鉄筋コンクリート二階建てで延べ面積約八〇〇〇平方メートルのものであった。

 このようななか、長野刑務所は三十五年四月一日、須坂市にすべての移転を完了し、その跡地は大蔵省の所管となった。そこで、改めて跡地は一大官庁街にする方針で、建設省と協力して建設計画をたてることになった。

 三十六年四月大蔵省は、東京大手町および名古屋・長崎・大阪・盛岡・千葉・金沢そして長野の各市に、官庁の合同庁舎を建てることになり、「第三次特別庁舎等特殊整備計画」を、同月十七日に蔵相の諮問機関である庁舎等調整審議会にはかって決定した。これは散在していた諸庁舎を立体的な耐火構造の合同庁舎にまとめ、同時に不要となる従前の庁舎を処分して、新庁舎の建設費に当てようとするものであった。この計画には、長野県庁舎や長野市庁舎は除かれていた。

 長野市は、刑務所跡地全体の利用配分については、中央南北に幅員二〇メートルの道路をつくり、その西側には、すでにできている拘置所のほか、行政庁舎・法務庁舎・裁判庁舎の三つのビルを建て、東側には市営体育館や公園、広場などとすることで、都市計画事業の指定を受けていた。ところが、県から勤労者福祉センターの建設敷地も入れるよう希望がだされたため、市営体育館は東和田地籍の総合スポーツ公園へ移し、この代わりに勤労者福祉センターを跡地に建てる方向で都市計画事業の変更をすることになった。加えて三十七年五月には、跡地に長野市の児童公園をつくることにもなった。

 合同庁舎工事は、三十七年度予算案で法務庁舎の建設費七〇万円が初めて認められ、長野合同庁舎の建設は一気に加速され、三十八年度からの着工が期待された。三十九年三月には合同庁舎全体の配置計画が決定されており、このうち、法務合同庁舎が四十年にまず完成し、四十一年当初には行政と裁判二つの合同庁舎も完成した。建設費の総額は約七億二二〇〇万円であった。三つの合同庁舎に最初に入った関連官庁は表7のようであった。


表7 合同庁舎概要 (昭和41年6月)

 その後、長野市庁舎と市議会は別の場所に建設することになったので、その場所には、長野県勤労者福祉センターと長野地方合同庁舎(関東財務局長野財務事務局・長野食料事務局・長野地方法務局・長野労働基準監督局・自衛隊募集事務局・自衛隊長野地方連絡部)が建設された。


写真18 戦後間もないころの長野飛行場 (『わが町の航空写真帳』より)