昭和二十年(一九四五)八月敗戦とともに、戦前約四〇〇を数えた全国の飛行場(大部分が日本軍使用)はそのほとんどが占領軍に破壊または接収されて壊滅し、残されたのは米軍基地用をふくめても六〇余にすぎなかった。
長野飛行場も同様に接収されたが、二十年十一月には早くも地元では市と大豆島村がいっしょになって、元地主などを中心に長野飛行場土地耕作組合をつくり、同月十六日から耕地づくりに着手した。まず、敗戦直前に飛行機を隠すために飛行場付近の場所につくられた三〇余ヵ所の掩体壕(えんたいごう)を取りくずして地ならしをしたり、また、各掩体壕への誘導路には麦のまきつけもした。二十二年六月接収解除の確認があり、さらに、二十三年四月以降一ヵ年の間には自作農創設特別措置法の規定により、滑走路(長さ六〇〇メートル、幅三〇メートルおよびその両側五メートル)、格納庫などを残して他の用地全部が開放農地に売却された(『民間航空に関する調査報告書』長野市)。
二十七年からは、対日講和条約の発効と航空法の公布施行による日本の航空事業が再開された。これにより運輸省の管轄は運輸省航空局にうつり、完備された空港以外の飛行は、フライトプランの許可をうけてすることになった。そこで、残された滑走路などは以後、新聞社の報道取材、商店の宣伝、送電線の監視、救助物資の輸送、農薬散布、長野国際観光の遊覧飛行など、小型機の発着やヘリポートに使用された。
さらに、三十六年から五十六年までの二〇年間は、航空局が認めた場外離着陸場(ヘリポート)となり、運輸管理責任者は田崎隆一であった。田崎は戦前テストパイロットとして活躍し、戦後は航空再開と共に使用事業ライセンスをもつプロ飛行士であった(『ゆに6』デザインスタジオゆにーく)。ところが、四十年代ころからは飛行場周辺は住宅用地化や商工業用地化がすすみ、事実上離着陸が困難となった。それにより、五十六年三月田崎の管理責任者辞退があり、航空局は長野場外離着陸場を閉鎖した。これ以後は、ヘリコプターの会社が個々に申請してのフライトとなったが、五十七年十二月長野市は同地を市営住宅建設用地とすることを決め、五十九年には滑走路上に市営高層アパートができ、さらに、平成二年(一九九〇)には市立犀陵中学校の建設がはじまるなど旧飛行場の姿はまったくなくなり閉鎖となった。地元では同四年旧飛行場内の一角に記念碑を建てている。
ところが、この長野飛行場閉鎖までのおよそ三〇年の間にも、長野市では国際および国内の航空事情の発展に応じて、戦後まもなくからいずれも数年単位で、飛行場の現地復活または場所をかえての飛行場新設の動きが、三回の時期にわたってみられた。
第一は、昭和二十五年から同二十九年松橋市長の時期である。松橋市長は二十五年十一月東京で航空保安庁からローカル線東京・新潟間が有望との情報を得て、さっそく林県知事や新潟県知事をたずね、長野飛行場復活の考えを表明した。また、二十七年十二月からインドで開かれた児童福祉国際研究会議での体験から「観光客の欲するのは交通のスピードだ」と、観光長野と東京を結ぶ飛行場の設置を積極的にもちだした。この背景には、二十七年四月二十八日対日講和条約発効・GHQの廃止、つづいて七月には航空法公布により日本航空株式会社の国内線が再開するという情勢もあった。
このような動きのなかで二十七年九月、長野市は「民間航空に関する調査報告書」を作成し、日本航空株式会社との合併による長野飛行場の復活を計画した。そして二十九年四月大豆島村ほか近隣町村の編入合併により飛行場建設に拍車がかかり、この国庫負担に期待した。しかし、この計画には国との間に食いちがいがあり、また、これらの計画にたいする飛行場付近の地元開拓組合、県開拓連などの反対が強く、さらに、二十八年九月制定の「日本航空株式会社法」により、長野航空会社の構想は不適格の見とおしがたてられ、ひとまず中止となった。
第二は、昭和三十一年(一九五六)から同三十三年倉島市長の時期である。三十一年全日本航空が事業を開始すると県下の各飛行場でも再建の動きが高まってきた。これに先鞭をつけたのが長野市であった。同年秋、倉島市長はアメリカ視察をおこない、航空路線の発達ぶりに「飛行場がないのは停車場の設備がないのと同然」と、飛行場の設置を意図した。
三十二年一月、このころ富山市でも飛行場設置の予定がでていたことから、市長はこれにあわせて東京・長野・富山の空路実現を計画した。すでに川合新田の旧飛行場は土地拡張の点で問題があるため、今度は市有地のある飯綱高原を第一候補地に、浅川・若槻吉地区などの現地調査を実施して、東京・長野・富山を結ぶ中部横断航空路線の新設を計画した。しかし、飯綱は地形や気象状況をはじめ、道路や建物をつくるためにも簡単にはいかない問題があった。
このあと、市は候補地に長沼地区の構想をだしたが、これも同地区で耕作している上水内郡豊野町が絶対反対を表明し、加えて三十三年一月には、国の新年度予算でも、長野飛行場をふくむ航空路予算は全額削除となり、長沼構想も見送りとなった。
第三は、昭和五十六年から五十九年柳原市長の時期である。この時期県下では松本空港のほかに長野市付近に新空港を、という動きが経済界を中心に強かった。五十六年六月長野青年会議所は市民総合アンケート調査を実施したところ、交通問題では長野空港実現に意見が集中した。そこで、十月二十八日同会議所は、公開シンポジウムを開いて「国際化時代に対応するため長野空港を実現すべきだ」という提言をまとめた。
長野市も、新空港設置にはすでに調査費を経上し、五十六年度から東京の民間会社「日本空港コンサルタント」に委託して、適地調査にかかっていた。この調査結果がまとまったのは五十七年十月六日であった。数ヵ所の候補地からしぼられたのは、信更地区の標高六四〇~七二〇メートルの台地で、現川中島カントリークラブ付近と茶臼山植物園にかかる二ヵ所であった(『長野空港立地調査報告書』長野市・日本空港コンサルタント)。
候補地がここにしぼられたことにより、川合新田の旧長野飛行場については、五十七年十二月二十四日市建設部が市営住宅建設用地にするとした。信更地区台地上に設定する滑走路の長さは幾つか予想されたが、二〇〇〇メートル級の場合、当時ジェット機でも使用できるもので、費用は概略四五〇億円程度と試算されていた。
しかし、いっぽうでは五十八年三月二十四日、中央道長野線の麻績(東筑摩郡)・須坂ルートが発表され全線のルートが確定された。当初は高速道と空港の建設で、たがいに出る残土と必要な盛土を相互に利用すれば、経費面で有利になるという試算もされたが、現実的な高速道の実現は強く、また、松本空港整備計画やオリンピック招致、新幹線などとのからみがあり、六十年三月『長野空港候補地詳細比較調査報告書』が長野市とコンサルタントからまとめて出されたが実現にいたらなかった。
いっぽう、長野市は五十七年十二月旧飛行場(臨時ヘリポート)の実質閉鎖にともない、その代用として安茂里地区の丹波島橋上流の犀川河川敷に「犀川臨時ヘリポート」を設置した。
昭和六十一年(一九八六)から、新ヘリポートの適地選定調査を実施し、六十三年七月候補地を若穂地区牛島(千曲川河川敷)として交渉を開始し、平成三年(一九九一)九月長野市若穂牛島一二九八番地―一に、種類は「場外離着陸場」、名称は「長野臨時ヘリポート」兼(千曲川防災ヘリポート)として開設した。このヘリポートの条例と施行規則によれば、主なものはつぎのようである。
①ヘリコプターの離着陸または停留のためヘリポートを使用しようとする者は、市長の許可を受けなければならない。
②離着陸または停留するヘリコプターは、最大離陸重量三トン未満とする。
③ヘリポートの運用時間は、午前九時から午後五時(日没が五時前の時は日没時)までとする。
④使用の許可を受けた者は、使用料として二五〇〇円を納付しなければならない。
なお、このヘリポートのおもな使用者は、県警、民間航空関係会社数社と市内の新聞・放送関係機関などである。