市民会館・新市庁舎・蔵春閣などの建設

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長野市では、昭和三十年代後半から市民会館・市庁舎・蔵春閣などの市の中心的な建物の新築・再建があいついだ。

 「(長野市は)文化観光都市をめざすのに、全国規模の会議を開くような大集会所がないため、大きな会はほとんどほかへもっていかれてしまう」(『信毎』投書)という声があり、会議をはじめ本格的な音楽会や劇などの公演ができるような市民会館建設の要望は早くからだされ、倉島至市長の選挙公約にもなっていた。

 昭和三十二年(一九五七)二月の市会で、市民会館は市制六十周年記念事業の一つとして建設することが決定した。場所は緑町の市有地をあてることとしたが、土地の用途をめぐって旧地主との交渉が難航したため、権堂や城山地区からも誘致運動がおきて着工がおくれた。土地問題は翌三十三年に市が見舞金をだすことで和解が成立したが、資金の調達方法や建設後の採算を懸念する反対意見も根づよく、市民会館よりはむしろ狭隘をつげる市庁舎の改築のほうが急務だとする意見もだされた。論議のすえ、昭和三十四年七月の市会では、緑町の市有地に、市民会館と市庁舎の二つをならべて建設することとし、選挙公約でもあった市民会館の建設を先にし、同三十六年の善光寺の開帳に間にあわせることを正式に決定した。市民会館と市庁舎の設計は、ともに早稲田大学教授十代田三郎(川中島町出身)に依頼した。

 建築請負業者は当初市内の業者を対象としたが、いずれも価格が折りあわずに請負を辞退したため、最終的に一億一五〇〇万円で熊谷組が請けおった。資金の調達は当初、厚生年金の還元融資の導入をめざしたができなかったため、総額一億五〇〇〇万円を三等分し、市独自・借入金・寄付金の三本立てとした。個人への寄付金の割りあてについては批判が大きかったため一世帯三〇〇円におさえ、法人や団体からの寄付を多くすることとし、また、物産館などの市有財産を売却して費用を捻出した。

 工事は、昭和三十五年四月十六日に起工式をし、翌年春の善光寺開帳および産業文化博覧会にあわせるため急ピッチですすめられ、翌三十六年四月八日に開館式をあげた。総坪数五一四六平方メートルで、それまでの城山市民会館(城山小学校体育館)の三倍の広さがあり、鉄筋コンクリートづくり、地上二階建てで、舞台は間口二〇メートル、奥行一四・四メートルであった。大ホールは、固定席一七五〇席、補助席五〇〇席、自家発電設備、暖房換気設備付きであった。また、国鉄信越線ぞいにあるため、完全防音装置とし、音響効果にも留意した。県下では松本市・岡谷市につぐ竣工であったが、規模は県下一であった。初年度の利用件数は四三一件で、全国農業協同組合大会・お年玉年賀はがき抽選会などの大会や音楽会をはじめ各種演芸会・講演会・式典などに利用された。この市民会館建設での寄付金は、三十六年十二月現在で累計四四九三万六三一二円が寄せられている(『広報ながの』)。


写真23 昭和36年に市民会館完成

 いっぽう、若松町の旧市役所庁舎は明治三十一年(一八九八)の建築で、老朽化がはげしく、雨もりや壁落ちがめだつようになっていた。昭和二十五年に改築したが、同二十九年の一〇ヵ村合併や社会生活の多様化によって事務量が大幅にふえたため手ぜまとなり、増築や他の建物への一部移転でしのいできたが、「たこ足庁舎」は能率が悪く、利用者にとっても不都合な点が多かったため、新築移転の要望が強かった。

 市は三十四年市庁舎建築委員会を設置して検討した結果、新市庁舎は、市民会館建設につづいて、昭和三十九年四月着工され、翌四十年十月落成式をあげた。将来の人口増をみこし、人口三〇万人を想定して設計されたもので、鉄筋コンクリート建てで、地下一階、地上八階、一部一一階の近代的庁舎であった。総工費六億円。一、二階をサービスセンター的な構造にして、戸籍・住民登録・水道・葬祭などの事務はすべて一階で処理できるようにし、市民ホール・売店・保健室・医務室などをもうけ、利用者の便がはかられた。また、のちにバスターミナルができると市民連絡室を置いて、住民サービスの充実をはかった。

 市役所・市民会館の新築移転によって、市の行政の中心は緑町へ移った。昭和通りも前年三十五年には市役所前まで拡幅延長されており、周辺一帯はデパート・銀行などもふくめてビルラッシュで、商業の中心も大門町・後町からしだいに昭和通り方面へ移っていった。

 城山公園南側の高台には、南に城山館北に蔵春閣と二つの建物がならんで建っており、明治以来市の公会堂として市民に親しまれてきたが、昭和二十四年に焼失したのちは、博覧会場として建てられた一部の建物が残されたものの、本格的な再建はなされないままであった。昭和二十八年、城山館跡地に観光館を建設し、観光都市長野の目玉にしようという案が市会に提案され論議を呼んだ。市民ばかりでなく善光寺を訪れる観光客を対象としたものであった。観光館の建設については、住宅建設など生活関連事業のほうが急務だとする不必要論と、建設後の採算にたいする懸念が根づよく、計画の縮小案もだされた。市会は会期を延長して論議した結果、サービスなど運営面を重視することと、特別会計とすることを条件に建設が決定した。

 長野観光館は昭和二十九年四月二日に開館した。鉄筋コンクリートづくり三階建て、総ガラス張りで、大ホール・食堂・喫茶室などをそなえていた。城山の南端という好位置にあって眺望もよく、市街地からもよくみえ、観光長野市のシンボルとして案内書や絵はがきなどで紹介されるようになった。結婚式や同披露宴のほか花見や夏の納涼にも利用された。初年度の利用は九三七件、使用料は一〇六万八二〇七円で、その後も順調にのびた。市は夜間の無料開放をおこなったりして市民の要望にこたえ、のちに無料化した。


写真24 昭和29年城山に長野観光館開館

 城山館につづいて、昭和四十一年には、市制七十周年記念事業として蔵春閣の再建がきまり、二ヵ年継続事業で建設された。鉄筋コンクリート三階建て、一部四階で、一階は五〇〇人収容の集会場、二階は食堂、屋上は野外音楽堂となった。城山公園内にあって林にかこまれ、眺望もよく、善光寺にも近いことから結婚式場などへの利用が多かった。これ以後、二つの建物はあわせて蔵春閣と呼ばれ、観光館は蔵春閣の旧館とよばれるようになった。


写真25 昭和42年城山に結婚式場や屋上音楽室をそなえた蔵春閣完成

 篠ノ井市民会館は、長野市合併前の四十一年七月に着工、翌年三月開館した。コンクリート二階建て、全館冷暖房施設つきで、一階には固定席六八〇の大ホール、二階には大小の会議室・和室のほか結婚式場もあって市民の利用をはかった。三月三日の開館式のあと劇団たんぽぽがこけら落としをした。

 こうして、市民会館・市庁舎・蔵春閣と、大合併した長野市の中心的施設があいついで建設された。また県や国でも、四十年の長野郵政局の設置・長野郵便局の新築移転、四十一年の国の出先機関を統合した合同庁舎新築、四十二年の県庁舎の改築などとあいまって、県都にふさわしい体制が整えられていった。