橋梁の架設と長野駅周辺区画整理事業

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戦後の市町村合併によって、長野市は市内に犀川・千曲川・裾花川など大きな河川をもつことになり、動脈としての橋の確保と安全整備は欠くことのできない重要な施策となった。昭和三十年(一九五五)の裾花橋(国道一九号)の架けかえをはじめとして、高度経済成長期にはいると長野市は橋梁の新設、架けかえ工事のラッシュをむかえた。

 その理由は、①戦前に架けられた木橋が老朽化して架けかえの時期を迎えていた、②製鉄や架橋技術の進歩によって、鋼橋・コンクリート橋・PC(プレストレスト・コンクリート)橋などが開発され、永久橋が一般的になった、③自動車の普及による交通渋滞を緩和するための新設が必要になった、④地域新興や合併にともなう市の一体化のために必要とされた、などがあげられる。内訳をみると、木橋から永久橋への架けかえがもっとも多い。それまで丹波島橋・両郡橋・篠ノ井橋などをのぞくとほとんどが木橋であったが、この時期にあいついで安全性の高い永久橋にかわった。

 裾花川にかかる長安橋は、裾花中学校生徒の通学上の必要からも工事がいそがれた。裾花中学校は安茂里村の合併によって昭和三十四年に開校、翌年米村に校舎が新築され、川東の岡田・若里・中御所などの生徒が通学していた。架橋工事は長野市が施工し、三十四年に着工、翌年完成した。橋の名は一般募集によって、長安橋と名づけられた。総工費は二八〇〇万円で、長野市が建設した橋としては市発足以来の最高額であった。この架橋によって、それまで交通から途絶していた安茂里地区の南部(一部青木島をふくむ)は、飛躍的に発展した。四十一年には長野工業高等学校が新築移転し、県の大型分譲団地ができ、工場もあいついで誘致された。

 市街地と安茂里を結ぶ裾花川の橋は、かつては相生橋一本だけであったが、昭和三十年に裾花橋が永久橋となって国道一九号へ編入された。長野市が南へ発展するにつれて橋も南下し、のちにはさらに下流にあやとり橋が架けられた。

 いっぽう、千曲川・犀川の合流部に架かる落合橋とその下流の屋島橋は、市街地と若穂地区・須坂市を結ぶ動脈である。いずれも木橋で、洪水のたびに流失・架けかえをくりかえしていた。最初それぞれに永久橋化期成同盟会を結成して運動をつづけていたが、二本の橋のあいだが約三キロメートルと短く、国の意向も両橋の永久橋化はむずかしいと伝えられたため、中間に一本の橋を新設しようとする意見もでた。しかし、長野菅平線の存続をめざす大豆島・保科・川田の三ヵ村が強力に従来路線への橋の建設を主張し、それぞれの永久橋の運動がつづけられた。新落合橋の建設工事は昭和三十七年に始まり、同四十一年に竣工した。長さ九四八メートル余、洪水にそなえて橋げたが高く耐震性の高い鋼板橋で、当時は県下最長の橋であった。この架橋は若穂地区の長野市への合併の有力な要因になった。ついで屋島橋も四十五年に永久橋となった。


写真26 昭和41年千曲川・犀川合流点に落合橋(948m)が完成 すぐ上流の木橋がしばらく使われていた

 真島と大豆島を結ぶ長野大橋は、国道一八号の丹波島橋の渋滞を緩和するために新しく架けられた。丹波島橋の自動車の交通量は四十年六月の調査で、すでに一万三七八八台と許容量の三倍をこえていた。これは昭和二十八年調査の一五倍にあたるもので、ラッシュ時の渋滞は三〇分にもおよんでいた。長野大橋の架橋工事は四十二年九月起工し、四十四年十一月に完成した。長さ五〇〇メートル、中央分離帯をもち、西側に二・五メートル幅の歩道をつけた。四車線の橋は関東北信越管内でははじめてのものであった。総工費一九億円、内訳は橋一二億円、取りつけ道路七億円であった。長野大橋の開通によって、自動車の流れは大きくかわって、丹波島橋の渋滞はかなり緩和され、また、これによって篠ノ井橋と長野大橋を結ぶ国道一八号バイパスエ事が促進された。

 このほか、千曲川にかかる赤坂橋は昭和三十年に本流部分が永久橋化され、岩野橋・関崎橋・更埴橋はいずれも永久橋化の工事が同四十七年に完成した。いずれも従来の木橋の永久橋化工事で、それまでは定期バスの乗客も安全のために、バスからおりて歩いて渡るところが多かった。また、犀川にかかる小市橋は三十六年に流失したものが、四十一年に竣工した。こうして市内の主な橋はすべて永久橋となった。


表8 高度経済成長期のおもな架橋

 いっぽう、国鉄(日本国有鉄道)長野駅は、鉄道開通以来長野市の玄関口として人びとにしたしまれ、市の発展につれて駅前広場も拡張整備されてきた。戦後は、昭和二十二年の拡張工事についで、昭和三十年にも長野駅前整備事業が計画された。しかし、土地所有者との交渉や鉄道管理局との経費負担の問題などがあって難航した。対象となる区域には、長野市・長野鉄道管理局・長野電鉄株式会社のほか周辺の商店主などがふくまれており、なかには戦時中強制疎開によってこわされたまま緑地になっている場所もあって、地主から返還訴訟がだされていた。しかし、昭和三十六年の善光寺の開帳を迎えて、それまでに駅前広場整備工事の完成を要望する市民の声もつよかったので、市は地主に代替地をさがして見舞金をだし、地主は訴訟はとりさげる条件で和解した。


写真27 昭和35年長野駅前が整備される

 事業は三十四年から二ヵ年計画で着手した。七〇九〇平方メートルだった広場を、管理局がわに拡張して八四六〇平方メートルとし、広場の中央には末広町へ通じる横断歩道をつくり、如是姫像を中心とする中央広場には砂利をしいて団体集合所とし、周囲を緑地帯でかこんだ。三本のバス停留所をつくり、ハイヤー(タクシー)駐車場・自家用車駐車場もそれぞれ分けて設置し、広場は全面舗装し、善光寺開帳に間にあわせた。費用の負担については話しあいの結果、ほぼ如是姫像を境にして東がわは国鉄、西がわは市が負担することとした。

 こうして駅前はいちだんと整備され、駅前広場はそれなりに効果をあげた。しかし、自動車の急増によってまもなく広場は交通渋滞に追いこまれた。市は地域一帯をふくめた根本的な整備にとりかかる必要にせまられ、昭和四十一年、市は「長野駅周辺第一土地区画整理事業」に着工することになるのである。

 いっぽう、長野駅東南部の栗田・七瀬方面は、第二次大戦後、郵政局・営林局などの官公庁や学校が建てられて急速に発展し、乗降客も増えていたので、長野駅では昭和二十五年八月に東口に改札口を設置して利用者の便をはかった。しかし、周辺の整備が遅れていたので、三十一年に市は東口広場整備計画を作成した。約三五〇〇平方メートルの用地(西口の約四〇パーセント)を買収して、広場を通る水路にふたをし、歩道・緑地帯を設置し、バス発着場、ハイヤー駐車場などを設けて、高田・長池方面へ計画されている都市計画路線東口通りの起点として整備しようとするものであった。三十七年には、市内では昭和通りにつぐ幅一五メートルの東口通りが開通した。