第二次世界大戦後の人口増加や生活様式の変化は、し尿・ごみの急激な増加をもたらし、市はその早急な対策にせまられた。とくに、し尿は化学肥料の普及と衛生意識の向上によって農家への還元が急減したため、貯留量は増加するいっぽうだった。昭和三十年ころの市の処理施設は、柳町と七瀬の二ヵ所にあるだけで、それをバキューム車二台で若穂福島の貯留場へはこんでいた。しかし、その総容量は市民の一日の排出量五〇〇石(約九〇キロリットル)のわずか一・五日分にすぎなかった。そのため、一部があふれて用水に流れだすといった問題もでた。市では応急措置として、補助金をだして、近郊に五〇ヵ所の野ためをつくって貯留しようとしたが、観光や環境衛生上好ましくないとして、保健所から中止勧告をうけるという事態になり対策に苦慮した(『信毎』)。
市は、昭和二十八年(一九五三)にすでに下水道整備一〇ヵ年計画を策定し、川合新田に約五〇〇〇坪の用地を取得して川合新田汚水処理場(四十九年南部汚水処理場と改称)の建設に着手していたが、急きょ計画を変更して、場内へし尿消化槽を設置することにした。それも最初は二ヵ年で一槽を設置する計画をたてたが、一年に二槽を設置することに改め、工事金の立てかえ請けおいによって工事を急ぎ、翌三十二年二月には完成、試験期間を経て十一月完工式をあげた。し尿消化槽二基、投入槽・沈殿池・希釈(きしゃく)調整槽・機械室・ガスタンクなどを備えた最新型の施設で、ボイラー・水量・温度などはすべてオートメーション方式で、自動的に調節処理した。消化槽二槽の大きさは九万人用で、市の収集量の三〇日分を収容し、一日九〇キロリットルの処理能力をもつもので、その規模は当時東京・神戸・札幌につぐ全国でも四番目の大きさであった。総工費約六〇〇〇万円、これによって数年来にわたった、し尿処理問題はひとまず解決した。
昭和二十九年の清掃法の改正によって、特別清掃区域(市街地)の汚物(し尿)処理は市町村の義務とされた。市は業者を許可制として料金は自由競争にまかせていたが、業者間の格差が大きく問題化したので、市が呼びかけて、同三十一年に「長野市清掃組合」(四十一年に生活環境協同組合と改称)を設立して、料金を協定した。処理場の完成によって、特別地区(旧市内)の、し尿汲み取りは三十三年五月から市の直営事業とし、汲み取り業務は業者に委託された。料金の徴収は、最初は「ふん尿汲取券」を渡すチケット制で、業者への委託手数料は処理場への距離の遠近によって三区分されたが、四十四年四月には、工場や浴場をのぞく一般家庭などに定額制を導入して、事務の円滑化・能率化をはかった。基本料金一〇円、人頭割り一人一ヵ月六五円であった。
いっぽう、昭和二十八年に、雨水・下水を別にする分流式により始まった水洗便所のための公共下水道管の配管工事は、最初はとどこおりがちだったが、下水道の終末処理態勢がととのったのを機に順調にすすんだ。三十三年には県町から川合新田まで約四・五キロメートルの集合幹線が接続して、三十四年十一月には、昭和通りから桜枝町を結ぶ区域二六一ヘクタール、約一八の町、一八〇〇戸の水洗便所の使用が可能になった。県下では飯田市・松本市につぐ設置であった。
当時、長野市内はビルの建築ラッシュの最中で、水洗化の早期実現の要望がだされていたが、消化槽の運転開始によって、ようやく布設が可能になった。同時に市の「下水道条例」が公布され、区域内の建物の所有者は、一年以内に排水設備を築造することが義務づけられた。
しかし、一般家庭の水洗便所への切りかえは、なかなか浸透しなかった。理由は、①枝管の配管が不十分で、家庭までの配管距離が長く、自己負担の資金の捻出(ねんしゅつ)が容易でなかったこと、②水洗化工事は家屋の改築とあわせておこないたいと考えた世帯が多かったこと、③借屋が多かったことなどであった。市では、同三十五年四月~六月には「排水設備、水洗便所の普及促進月間」をもうけて、集団による共同施工をすすめたり、補助金制度を導入したりして普及をはかった結果、利用者はしだいに増加していった。
昭和四十年には下水道の利用率の増加にともなって、川合新田汚水処理場は下水処理だけで手いっぱいになり、また、し尿の量も予想をこえて増加したため、市はその北側へ新たに約三〇〇〇坪の処理場を拡張増設し、長野衛生工場とした。当時一日の排出量一六五キロリットルにたいして一八〇キロリットルの処理能力をもつものであった。
四十一年の合併後も、し尿処理は従来の処理場でおこなわれたため、市のし尿は、長野衛生工場のほか、更埴市の千曲衛生センター(篠ノ井・松代・川中島の各地区)、須坂市の須高衛生センター(若穂地区)の三ヵ所で処理されることになった。さらに、昭和五十年には信州新町に犀峡衛生センターが建設されると、信更地区(のちに七二会も)が新たに収集地区となった。し尿の増加につれて、旧市内の一部を千曲・須高の衛生センター二ヵ所へ依頼して特別投入をしたりしたが、それも手いっぱいになり、市はさらに、新しい処理施設建設の必要に迫られたが、用地の取得に難航し、昭和六十年川合新田にようやく大規模な新衛生工場(平成十三年に衛生センター)を建設した。しかし、増えつづけたし尿運搬量も、公共下水道等の普及により、平成六年をピークとしてようやく減少傾向をみせた。
いっぽう、ごみ(塵芥(じんかい))の収集は、明治三十三年(一九〇〇)の汚物清掃法施行以来市が実施し、大正十三年(一九二四)設置した七瀬の塵芥焼却場で処理していた。戦後は月二回無料の収集をしていたが、昭和二十七年、ごみの増加にしたがって大口利用者分は料金制とした。昭和二十九年当時の市のごみ収集状況は、一般家庭からの排出量は一月約八〇〇トン、一トン積み三輪車五台が、毎日三五トンのごみを作業員六〇人で処理場へ運搬していた。市では清掃強調月間をもうけて、ごみ箱の設置を呼びかけたり、購入のあっせんをしている。しかし、ごみは増大するいっぽうで、三十二年に一万三六〇八トンだったごみは三十六年には二万五五一七トンと四年間に約二倍に急増した。昭和三十七年、市は清掃事務所を新設し、清掃車四台、作業員一五人を増員して対応した。また、同年大豆島の犀川堤防沿いに、清掃工場(塵芥焼却場)を造成した。敷地三三四九坪(約一万一〇五〇平方メートル)の焼却炉を本体に、煙突の長さ五五メートル、焼却能力は、ごみは一日一〇〇トン、野菜くずなどの厨芥(ちゅうかい)は一日一〇トンで、当時の排出量七〇トンはじゅうぶん処理可能で、総事業費五八三三万円、県下最大の規模であった。
この間、し尿・ごみ処理の業務は、昭和三十三年社会部衛生課、三十六年社会部清掃事務所の所管となり、四十五年には衛生部衛生課・清掃課、四十七年には環境部環境第一課・第二課と、部・課名をかえた。
市の斎場(さいじょう)は昭和五年以来、中越(太田)に置かれていたが、老朽化したうえ、松代群発地震による建物の破損がめだつようになった。そのうえ周辺の市街地化がすすみ、移転を望む声がしだいにたかまってきた。
新斎場の位置は、大峰山頂の北の窪地、大字大峰山一六一二に決定した。総面積五二九三平方封余、本棟・待合室・渡り廊下・地下貯油槽(四〇〇〇リットル)。鉄筋コンクリート平家建て、高性能の火葬炉四基をそなえたもので、建設費六二〇八万円であった。四十四年十月一日から使用を開始した。
この場所は県の戸隠有料道路(通称バードライン)の沿線に近く、観光バスなど車の通行が多いため、斎場の建設にあたっては、有料道路からみえないこと、煙がでないことが条件とされ、また霊柩車(れいきゅうしゃ)も華美な装飾のないめだたないものが使用された。
いっぽう、市営松代斎場は、昭和十年一町五ヵ村組合によって鳥打峠に建設されたものだったが、老朽化したため五十五年金井山のふもとに新築移転した。県下ではじめて柩(ひつぎ)の長時間安置施設を設置した。それまで大峰斎場の一割余にも満たなかった利用率が、約七割にまで増加した。
葬儀の公営事業は昭和二十二年九月、市の生活改善事業の一つとしてはじめられ、葬祭具飾りつけ、霊柩車、火葬の業務を実施した。費用は原則として実費程度とした。
また、昭和四十五年度から市開発公社によって、自然林にかこまれた浅川の展望台一帯に六五〇〇区画の墓地公園が造成された。六ヵ年計画で、二六万五〇〇〇平方メートル、九七〇〇区画を造成し、同四十八年には一期分一三〇〇区画が分譲された。総工費七億一一五〇万円であった。