医療と保険

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長野市の医療は、戦後の混乱で医療従事者の少なさと医療資材の乏しさから一時的には困難に直面したが、昭和二十年代後半から順次改善されてきた。とくに三十年代から四十年代に至る、経済の高度成長期においては、病院数・病床数ともに飛躍的な発展をみた。戦後五年目の医療施設・従事者数は表10、昭和三十年~四十七年の長野保健所管内の医療施設・病床状況は表11のようであった。


表10 長野市域医療施設および従業者数 (昭和25年12月)


表11 長野保健所(長野市・上水内郡)管内医療施設

 戦後、日本の保健・医療上の最大の問題は、伝染病の蔓延(まんえん)と栄養失調の急増であった。昭和二十一年(一九四六)の春から、長野市においては発疹チフスが大流行した。発疹チフスの流行にたいし、長野医師会は二十二年一月三日「防疫措置に就いて」の文書を各会員に発し、伝染病の早期診断と迅速な届けでに万全を期すように要請した。二十三年七月には長野軍政部の指示で、全市民にたいして発疹チフスの予防接種が実施された。その第一次分として接客業者・交通関係者や医師・看護婦などの医療関係者、さらには、社会事業施設職員・警察関係職員、共同宿舎をもつ土木建築関係者、学生・生徒、浮浪者などに実施した。腸チフスの予防接種も、市が各世帯に実施日割りの通知を発して、市内一二ヵ所(小・中学校)で実施した。二十三年は長野軍政部の指示で、長野市長は市医師会の協力を得て、全市民の八五パーセントの完了をめざした。

 昭和二十年の長野県内の結核の蔓延(まんえん)状況は、人口一万人にたいし一九・九人にのぼっていた。長野市は二十四年、厚生省から結咳持別市の指定を受け、保健所と協力して各種事業を活発にすすめた。同年十一月長野保健所は、長野市医師会・国立長野診療所長・上水内郡医師会長を招いて、結核対策について打ちあわせ会を開いて、学童にたいする定期外予防接種の実施・ツベルクリン反応陽転者の指導、自宅療養患者の指導などに取りくんだ。当時、結核は死因の一位をしめ、この蔓延を防止することは、国民保健の上からも経済再建の上からも重要課題で、二十五年には全国いっせいに結核予防週間が実施された。保健所は、職場や学校などでの集団検診・巡回訪問指導をしたほか、街頭検診も実施した。長野市も講演会・座談会・紙芝居・幻灯会の開催、結核予防従事者にたいする結核予防教育などの啓蒙活動を強力に推進し、市医師会もこれに全面的に協力した。昭和二十六年四月一日結咳予防法が施行され、これにより一段と結核予防の徹底がはかられた(『心のあしあと長野市医師会一〇〇年史』)。


写真35 全市で実施した移動レントゲン車による結核検診

 昭和二十五年の伝染病の発生数をみると、総数七九人の患者のうちもっとも多いのは赤痢で五六パーセント、つぎに猩紅熱一七パーセント・腸チフス一二パーセント・日本脳炎六パーセント・ジフテリア四パーセント・パラチフスおよび流行性脳背髄膜炎各一パーセントであった(『長野市勢要覧一九五一』。二十年代前半の小中学生の衛生状態は悪く、頭にはしらみ、腹には回虫が寄生していた。時に長野市教育会は、二十一年に保健養護研究部を設け、戦後の混乱した学校教育のなかで、児童・生徒の栄養状態・欠食児などの調査や健康保持の指導をおこない、養護教諭を中心に寄生虫駆除・トラコーマ対策・頭のしらみ駆除・便所の衛生管理・排水・採光などのきめ細かな指導を関係機関と連携してすすめた(『長野市教育会史』)。


写真33 発疹チフス予防のためのポスター(部分)

 長野市は、戦時下の昭和十八年(一九四三)二月から、独自に長野市国民健康保険組合を結成し、任意加入制で、その運営をすすめていた。しかし、戦後の混乱のなかで二十三年三月、組合運営が困難となり休止状態となった。二十九年四月一日に近隣一〇ヵ村を編入合併すると、六ヵ村地区(古里・柳原・浅川・朝陽・小田切・芋井)の国民健康保険事業を継承した。そして、市役所に三十一年一月保健室を、四月には保険課を新設して、旧六ヵ村地区の会計を一本化し、翌三十二年には給付率が被保険者五割・助産費一〇〇〇円・葬祭費二〇〇〇円等の事業を全市域に実施した。三十三年十月一日からは、初診料の給付を実施した。

 三十八年(一九六三)十月一日からは世帯主・準世帯主の七割給付を実施し、同年七月一日に療養の給付期間の制限を撤廃した。さらに、四十一年四月一日から育児手当金一二〇〇円を新設し、助産費・葬祭費を各三〇〇〇円に引きあげた。四十一年十月十六日二市三町三村(長野・篠ノ井、松代・若穂・川中島、更北・七二会・信更)が合併し、旧市町村の事業をそのまま継承した。

 国民健康保険組合事業のうち、市独自の事業を中心に列挙するとつぎのようである(『国保のあゆみ』)。

 43・ 1・1 全被保険者の七割給付を実施

 44・ 4・1 高齢者特別給付金の新設(八三歳以上九割給付)

    6   保健補導員組織の育成を開始

 48・ 1・1 老人医療費の支給開始

 49・10・1 高額療養費の支給制度実施(一部負担金三万円をこえる場合)

 52・ 4・1 保険料の二割軽減実施(市独自)

 55・ 4・1 高額療養費の受領委任払制度実施

 58・ 2・1 老人医療費の給付が国民健康保険から分離、別制度に(老人保健法の施行)

 59・ 4・1 高額療養費共同事業開始

   10・1 退職者医療制度発足(本人八割、非扶養者入院八割・通院七割給付)

 62・ 4・1 保険料の二割軽減枠を拡大(市独自)(多人数世帯の負担軽減)


写真34 予防ワクチンを受ける子どもたち

 現長野市域の山間地域には無医地区があり、昭和四十一年の大合併以前から、各自治体による国民健康保険事業としての直営診療施設が設けられていた。直営診療施設には固定と移動の二種類があり、固定診療所としては、信更氷ノ田の信更診療所、山田中の小田切診療所、篠ノ井有旅の信里診療所、若穂の若穂診療所・保科診療所の五ヵ所があった。その他、浅川・小田切・若穂の特定地区を巡回診療する、移動診療所があった。

 信更診療所の内科・小児科は、二十八年十月一日に信更村氷ノ田に開設され、診療日は毎週月・火・金曜日の三日間で、診療時間は午後一時三〇分から三時三〇分までであった。所長(医師)一人、臨時職員三人で運営されていた。診療圏は信更全域にわたっていた。三十一年八月三日に歯科が増設され、信州新町から大内歯科医が来診し、毎週火・金曜日の両日に半日の診療がなされるようになった。五十年四月診療所が改築され、木造二階建の施設で診療がおこなわれることになった。

 小田切診療所(歯科)は四十六年十月五日、農村環境改善センター内に開設された。診療日は毎週月・水曜日で、診療時間は午前九時三〇分から午後三時までであった。同診療所は五十七年一月一日山田中へ移転した。

 信里診療所(内科)が開設されたのは、四十九年十月二日であった。有旅にあった鉄筋コンクリートづくり二階建の連絡所建物内が利用され、毎週火・木曜日の午後二時から四時までが診療時間で、信里全域が診療範囲であった。五十六年十月一日に歯科が付設され、毎週木曜日の午前九時三〇分から一二時三〇分までが診療時間であった。

 若穂診療所(歯科)が全日診療を始めたのは四十三年六月一日であった。同診療所は四十八年八月一日に新築落成した建物で診療をつづけたが、五十六年に廃止された。保科診療所は五十二年五月十九日、医師病気のために休診したが、五十三年八月二日再開されて水・金曜日週二回の診療を始め、翌年一月四日から常設となった。しかし、五十七年三月三十日には廃止となった。

 長野市の移動診療所は四十六年六月十四日に開設され、実際に移動診療が始められたのは七月九日であった。移動診療所は開設以来診療活動をつづけていたが、平成四年(一九九二)十二月一日からは移動診療車を更新して、山間無医地区の診療の充実につとめている(市厚生課『直営診療施設』)。