保育園と保育所の増設

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昭和二十二年(一九四七)十二月児童福祉法が制定公布され、翌二十三年三月同法施行令・同法施行規則が制定されることによって、保育所(園)は従来の託児施設としての機能から、保育の困難な家庭の児童を対象とした社会福祉施設に変換された。児童福祉法の制定と並行して二十三年十二月には児童福祉施設最低基準がさだめられ、保育所の施設設備・職員・保育時間・保育内容等の基準が示され、公立・私立等の種別に応じた公費負担の原則が確立した。

 長野県における保育所の設立・整備は、県や市町村の熱心な行政施策の推進により、全国にくらべて著しい進展をみせた。その背景には林革新県政の誕生と社会福祉政策による積極的な推進があった。公立私立合わせた認可保育所の合計数は、昭和二十三年二〇、三十年一七六、四十年三三九、五十年五八五ヵ所とふえつづけて、五十六年には六六六ヵ所となった。五十年度における本県の状況は、施設数において全国四位、定員数では第三位であり、就学前児童数にたいする保育所定員の割合は全国一位であった(『長野県保育のあゆみ』)。

 旧長野市内において昭和十六年(一九四一)当時、常設保育所は八ヵ所あった。そのなかで設立の早い長野保育園(現山王保育園)と、地域住民の手で設立・維持されてきたという特色をもつ茂菅保育園を例に取りあげるとつぎのようである。

 山王保育園の前身である長野保育園は、大正十四年(一九二五)二月長野方面委員助成会によって北石堂町に設立された。設立当時は、職員七人、保育定員七五人、受託時間午前七時から午後五時まで、保育料は月一円三〇銭であった。保育室は広い板の間と大きなこたつのある畳のへやの二つだけで、備品は小さなオルガン一台であった。長野保育園は昭和二十三年八月、定員一四〇人の市立山王保育園として認可されて今日にいたっている。


写真36 昭和23年開園の山王保育園

 茂菅保育園は、昭和十六年加茂小学校茂菅分教場廃止にともない、茂菅区が同分教場の校舎を市から借用して、農繁期(四月から十一月)の季節保育所として、区が経営主体となって開設された。二十一年からは地方自治法の改正によって、保護者会が経営主体となった。当時の収容人員は、幼児約六〇人であった。二十三年九月一日に児童福祉法による茂菅保育園として認可され、この年から定員四五人・保母四人の通年制保育園となった。三十五年には名目上の設置主体者が茂菅育成会に変更されたが、実質的には保育園の経営主体は茂菅区であり、園長と会計は区の役員会において選出され、区長名をもって委嘱されていた(三十九年までは区長が園長を兼任)。四十年新園舎が竣工し、保育内容が充実していった。

 現長野市域の昭和二十年代の公私立の常設保育所二八ヵ所の大半は、旧長野市の市街地やその周辺に限られて偏在し、農山村部は専ら季節保育所に依存していた。しかしなお、長野市の中心部では入園希望者が多く、申請手続きをしても、入園は容易ではなかった。そこで、抽選による入園決定が採用される事態となった。このため、保育所増設のための住民運動かおこり、公立とともに私立保育園の設立を促進する行政指導がなされた。表12は二十年代から五十年代における現長野市域の常設保育所の設置状況である。


表12 現長野市域の常設保育所設立状況


写真37 昭和36年10月開設の保科保育所

 いっぽう、現長野市域の昭和二十年代の季節保育所は、児童憲章が制定された二十六年以後に、開設の機運が盛りあがり各地に開設された。この時期の季節保育所数は、表13のようであった。


表13 昭和20年代の市町村別季節保育所数

 これらの季節保育所は、しだいに保育期間が延長され内容が整備されて、通年制の常設保育所に転換したり、統廃合されたりした。季節保育所の多くは、小学校校舎の一部や公会堂・神社・寺院などを借用していた。また、常設保育園においても小学校校舎を仮用し、園長は小学校長が兼任する場合が多かった。保母も無資格者が多く、保母教育が大きな課題であった。保母の現職教育に大きな役割りを果たしたのは、昭和二十三年十月に結成された長野市保育協会であった。

 三十年代になっても、都市部を中心に保育所での保育への要望が増大し、それにたいする施設・設備等の態勢が追いつかない状態であった。この時期には公私立合わせて一五の常設保育園が新設され、いままでなかった若穂地区に四ヵ所、七二会地区にも二ヵ所の開設をみた。また、この時期には、今まで仮住まいたった園舎の新改築が各所でおこなわれた。それにともない、保育内容で変化したのは、それまで大部分は一年保育であったものが、社会的要請もあって三歳未満児保育も試みられたことである。三十一年度から山王保育園、三十二年度から後町保育園、三十四年度から中御所保育園でそれぞれ乳幼児保育が始められた。


写真38 3歳未満児保育を始めた秋葉保育園

 また、今まで集団保育がおこなわれなかった地域に、農繁期を中心に季節保育所の開設がすすめられた。その開設数は長野市芋井地区三、小田切地区一、七二会村五、信更村五、松代町一であった。二十九年に長野市に合併した芋井地区では地区の社会福祉協議会の手で、七二会村や信更村では村自治体の手で、それぞれ季節保育所が開設された。七二会村の場合は、三十六年度から制度化されたへき地保育所の設置要項の適用によって認可保育所となり、通年制として常設化した。

 四十年代には、母親の家庭外への就労進出や、兼業農家への転換移行にともなう労働負担の増大などから、乳幼児保育に困難する家庭が急激に増加した。そのため、地方自治体による保育施設の拡張対策が需要に対応できず、民営による保育施設がそれを補完した。四十九年四月現在の保育所数は、公私立合わせて六八施設となり、その定員は六五〇〇人をこした。四十年代の長野市域の季節保育所の新規開設は、信更地区の高野季節保育所一ヵ所だけであった。しかし、市域には三十年代からの季節保育所がそのまま継続されているものがあったり、へき地保育所の指定を受けたり、通年化した未認可保育所として存置しているものがすくなくなかった。四十九年度現在の長野市域では、季節保育所が四〇ヵ所、無認可保育所が九ヵ所あった。

 五十年代には市の人口増加にともない、住宅団地の造成や公営アパートの建設が郊外地域におこなわれるようになり、長野市の人口動態にドーナツ化現象が顕著になった。そのため、市街地の保育園の多くに定員充足率の低下がみられて定員の変更を余儀なくされ、近郊周辺部の保育園では定員増と保育園の増設が要請されるようになった。城山保育園はしだいに入園児童が減少して、五十九年には定員六〇人にたいして入園者は一八人となり、六十年から休園となった。こうした減少傾向は、山間地の保育園にもみられるようになった。郊外では、若槻のさつき、若穂の白塚、柳原の杉ノ子第二、川中島のフレンド、大豆島の大豆島、安茂里の松ケ丘など、定員一〇〇人をこす私設の保育園が新設された。

 また、長野市では五十七年ごろから、料芸組合や飲食関係業者等による夜間保育所設置の要望が高まって、長野市私立保育協会を設置主体とした若葉保育園が設置された。これは、全国的にも先駆的な事例であった。