長野産業文化博覧会は、貿易自由化時代を迎えたわが国のめざましい発展と国際的地位の向上の基盤となった産業文化の現況を一場に集め、広く一般に公開し、産業の発展と文化の向上に寄与することを願って、県都長野市において善光寺の開帳にあわせ開催された。主催者を長野県・長野市・長野商工会議所の三者とし、城山公園一帯を会場に、会期を昭和三十六年(一九六一)四月一日から五月二十一日までの五十一日間とした。経費約一億五〇〇〇万円を投じ、この年、博覧会を開催するのは全国で長野市だけのため、入場者数を六〇万人以上と見こんだ。
博覧会の会場は、児童館、風俗館、仏教館、郷土館、電波と電気通信館、交通館、郵政館、南極館、宇宙館、プラネタリウム館、全国の観光と物産一号館、同二号館、同三号館、長野県の観光と物産館、農林水産館、専売館、原子力館、生活文化館、アメリカ館、工業館、国鉄館などからなり、昭和二十四年同会場で開かれた平和博覧会を量質ともにしのぐ内容が計画された。
昭和三十五年七月二十五日、産業文化博覧会の発会式が蔵春閣においておこなわれ、開幕をめざして第一歩を踏みだした。開催会場の建設に並行し、三十五年八月末から九月初旬にかけて市会議員・市職員・県職員など六、七人の編成による出品勧誘隊各班は、特産品などを出品するよう各県に宣伝をかねて勧誘してまわった。同年九月二十七日には、出品県と市担当者による打ちあわせ会が開催された。
県民・市民の関心を高めるために、ポスターをはじめNHK長野放送・信越放送による宣伝や新聞広告なども積極的にすすめた。また、産業文化博にあわせ大峰山、地附山一帯の観光開発をめざし、善光寺雲上殿から大峰山頂へのロープウェー・展望台・遊園地の建設、中央通りに隣接する権堂町商店街全面アーケードの建設もすすんだ。さらには、玄関口長野駅の化粧なおし、待合室の改修、駅前歓迎ネオン灯の設置も順調にすすんだ。
開幕を一ヵ月後にひかえた三十六年三月、会場となる城山公園一帯では、三会場にわかれた仮設館二〇館(二六棟、約九九〇〇平方メートル)の外壁工事もほぼ終わり、内部の装飾、展示品の搬入がすすめられていたが、三月二十五日から昼夜兼行の突貫作業に入っていた。ところが、そのヤマとされた二十六、七の両日に予想外の雪と雨が降ったため、仮設館にかなりの雨もりがあり、会場内の通路がぬかるみ、運搬用トラックが通れなくなって屋外準備作業や飾りつけ作業がはかどらなかった。第一会場(児童館、文化館、風俗館、仏教館、郷土館)は順調に準備がすすんでいたが、第二会場の郵政館をのぞく他の仮設館や第三会場の国鉄館をのぞく他の仮設館のなかには、開幕に間にあわないのではないかとの心配もあった。しかし、準備に最善をつくした結果、開幕前日の三月三十一日には一部を除いて準備が整い、「いよいよあす開幕 長野産業文化博覧会四月一日~五月二十一日 おそろいでおでかけください」(『信毎』)と開幕を待つばかりとなった。
昭和三十六年四月一日、開会式が午前八時半からおこなわれ、西沢県知事が第二会場入り口のテープをきって、第二、第三会場を開いた。第一会場は、犀川河原での水防・災害救助総合演習の見学を終えて到着された皇太子夫妻による視察終了を待って、午後一時から一般に公開された。
開幕当日、善光寺の開帳と皇太子夫妻の博覧会観覧が重なった善光寺・城山公園一帯は、一〇万人近い人出でごったがえした。朝から新潟、群馬、千葉などの県外宿泊客二五団体約四〇〇〇人の参拝がつづき、ついで県内各地から貸しきりバス約二〇台がくりこんだ。空には遊覧飛行機がとび、お祝いの花火が景気よくあがり、地元の小・中・高校生、家族連れなどぎっしりと人垣がつくられ、整理に当たる警察官もマイクで混乱防止に懸命だった。博覧会場前の城山小学校校庭には、善光寺の参拝と博覧会場の見学を終えた皇太子夫妻が、プールサイド観覧席に立つとひと目見ようとする人で埋まり、歓呼の声があがっていた。
初日から七日までの一週間、連日六〇〇〇人近い入場者があり、好調な滑りだしをみた事務局では、早くも収支からみて目標とする六〇万人突破の皮算用が出はじめるほどであった。会期中の人出は、ヤマ場となる四月末から五月はじめの飛び石連休と天候などに左右されるが、関係者にとってまずはほっとする状況であった。
第一会場の児童館には、明治・大正・昭和の教科書が展示され、子ども連れのおとなたちも懐かしそうに集まっていた。また、三年後に開催の東京オリンピックにも関心が集まっていたが、一番の人気者は世界最初のロボット管弦楽団の演奏であった。第二会場の電波と電気館ではテレビ電話機に、南極館では帰国直後の南極越冬隊の活躍の様子、原子力館では原子力発電や原子力潜水艦の模型に関心が集まっていた。長野市の夜空の星をみるプラネタリウムなどにも観客が集まった。
全体をとおして、いちばん見ごたえのあったのは、第三会場の「全国の観光と物産館」であった。北海道から九州まで全国四〇都道府県から出品された家具、織物、装身具、食料品などが郷土色豊かにぎっしり並べられ、全国早まわり一周旅行の感があった。いっぽう、「長野県の観光と物産館」では出品種目が少なく、県外からの参観者のためにも長野県の持ち味をだした工夫がほしいとの声も聞かれた。
中盤を迎えた四月二十三日の日曜日は好天にも恵まれ、善光寺の開帳と博覧会場の城山公園一帯は長野署推定で午前中だけで最高の一〇万人ちかい人出でにぎわった。四月二十六日の中間での入場者は二八万一七五〇人となり、当初予定の六〇万人の人出は確実の見通しとなった。商店街なども活況をみせ、地元長野市は後半の追いこみに入った。
五月二十一日には、五一日間にわたる会期の終了日を迎え、善光寺の開帳とあわせ、博覧会の実入場者数は七三万三五六三人で、新記録となった。客足は長野駅の昇降客数によれば、開幕から五月十六日までの四六日間で、九五万八三七六人となり、三三万人を運んだ昭和三十年善光寺の開帳(会期四一日間)の時に近くなっていた(『信毎』)。
収支決算の概要は、総経費が一億二四〇〇万円程で、博覧会費用でつくった児童遊園地(一〇〇〇万円)、城山公園水銀灯(一五〇万円)、駅前歓迎塔(三七五万円)、駐車場(二〇〇万円)が残ったので、実質的には収支がおよそ合うこととなった。
開帳と産業文化博覧会開催の成果については、①長野・上野間鉄道のディーゼル化などの交通事情の充実、②大峰山観光開発を軸とした長野市観光開発の方向性、③善光寺と長野市の協力による信仰と観光の調和的発展の三点があげられ、長野市の今後の発展に一大転機をもたらした。