昭和二十九年(一九五四)、長野市では工業振興条例が施行され、既存工場の育成と工場誘致に力が注がれた。三十年代から四十八年のオイルショックまでにかけて、我が国は未曾有の高度経済成長期となった。三十五年(一九六〇)六月の「貿易・為替(かわせ)自由化計画」は一年余りで九〇パーセントを達成、同じく三十五年暮れの「国民所得倍増計画」は平均年率一一・六パーセントの高い伸び率を示した中で、長野市の工業も格段の発展を成しとげた。
従来、長野市の工業生産は、県下において松本市(三十八年六月、松本諏訪新産業都市の指定を受けた)についで二番目の出荷額であった。しかし、四十一年の合併後は一番となった。また、長野市の産業における工業のしめる位置も大きくなっている。そして、長野市の工業の様相も従来とは大きな変容をみせてきた(表14)。
長野市の業種別工業の推移は表15のようであるが、三十五年には、食料品製造業が群を抜いており、ついで、出版印刷業、繊維工業、金属製品、電気機械器具、木材となっている。菓子、缶詰、醤油、味噌、酒は戦前からつづいているもので、工場数、従業員数、出荷額とも拡大して戦後も引きつづき発展を示している。
三十六年からの国民所得倍増計画では、中小企業の企業間格差や地域間格差を是正して、近代化・合理化をすすめるために集団化策がとられた。南長池の「長野木工団地」は長野木工事業協同組合(滝沢治助理事長)をつくり、これが主体となってすすめられた。そして、通産省から三十七年度工場団地対象地域に指定され、四十年七月に完成した。一三万二〇〇〇平方メートルの敷地に一六の企業が工場を建て、生産の合同化や貯木場、乾燥場、倉庫、家具センターなど共同施設の利用などにより合理化をはかった。
四十年では、長野市全体の工業の出荷額は、三十五年の二倍以上になった。どの業種においても、着実に生産を拡大させてきた。出荷額が一番多いのは、依然として食料品製造であり、二番目以下は印刷、金属、繊維、電気、機械、木材とつづく。食料品製造業は、長野市の工業製品出荷額のほぼ三分の一をしめ、工場数も三十五年から五〇以上、従業者数も七〇〇人以上ふえている。しかし、出荷額の五年間の伸びでは、食料品・印刷は二倍余りの伸びであり、繊維では減少を示しているなかで、金属と機械は三倍以上の伸びを示すにいたった。繊維では、化学繊維の発達と生産の自動化の影響を受け、長野市においては、鐘紡長野工場でも従業員が三〇〇人以上ではなくなった。
長野市は、四十一年の合併により市域が拡大しているので、それまでとは単純に比較することはできないが、四十五年の工業の出荷額は一一九一億七二〇〇万円となり、高度経済成長の流れに乗ってさらに大幅な伸びを示している。そして、業種別の生産額では電機が一位となり、以下、食料品、印刷、機械、金属、木材、紙、繊維の順となって工業全体の様相がかわってきた。四十五年になって初めて食料品に代わり電機が首位となり、長野市の総出荷額の三分の一をしめるようになった。工場の規模では、どの業種も二〇人に満たない工場がほとんどであるが、従業員三〇~二九九人の工場が一六〇で、三〇〇人以上の比較的大きな工場も一五にふえた。このうち、六工場は大がかりな生産設備とすすんだ技術を必要とする電機であり、主な工場には長野日本無線、新光電気、富士通長野工場などがある。戦時疎開から始まったもの、小さな町工場から始まったものなど、創業はそれぞれであるが、戦後は経営努力と技術開発をおこない、大手と提携して拡大をはかってきた。このころから技術の発展とともに、小さくても付加価値の高い電子関連製品への移行が始まっている(表15)。
昭和十七年十月、東京三鷹市から日本無線が市内栗田と鶴賀に戦時疎開してきた。長野市が授産所として建築した建物を買収し、当初は、五〇〇坪の建物一五棟に学徒動員など四五〇〇人が働き、軍需関連の無線機やレーダーの生産をしていた。終戦により生産中止、一部、長野中央病院のように残された設備もあった。後二十年十一月、連合軍より民需への転換が許可された。九〇〇人体制でラジオを中心にスピーカー、テスター、コンデンサーの生産を開始した。その後、経営上の問題から規模を縮小し、上田、諏訪工場と共に昭和二十四年十月長野日本無線株式会社として分離独立、無線機器の受注生産をするようになった。
二十七年、鶴賀工場が火災にあい機械工場が全焼した。復興後は、日本無線本社からの受注が始まった。三十一年以降は、芹田、安茂里、芋井、柳原等長野市近郊の有線放送設備を受注、全国へ展開した。三十三年、三菱電機と提携、資本を受けるようになって誘導無線や送受信機の生産も手がけるようになった。こうして、工場の増設を重ねていったが、鶴賀では手ぜまになったことと火災の教訓から不燃性の建物の必要を考え郊外への移転をはかった。更北村の斡旋を受け、下氷鉋に一万四〇〇〇坪の用地を確保して技術、制作、管理部門を移転した。この川中島(現本社)工場では、当初有線放送の生産をしていたが、三十八年からは日本無線本社からの受注がふえ、前期にくらべ五八パーセント生産増を果たした。また、三菱電機や光電製作所のFM無線機やレーダーの生産もおこなうようになった。さらに、従業員の主体的な品質向上運動や製造部門ごとの工場制を取りいれるなどして生産性を上げていった。四十五年には、ミニコンピューターや工作機械の小型制御盤などの生産もおこなうようになった。
新光電気は、南石堂にあった家庭用電球の製造工場が、十九年戦時疎開により富士電機製造株式会社(現富士電気)に買いとられ、研究部長野分所として軍用レーダーの真空管を製造するようになったのが始まりである。戦後は、二十一年二月、合資会社長野家庭電器再生所が設立され、その生産設備を民生用電球の製造工場として利用した。社員は約六〇人であった。同年九月には、新しい光を創るという願いのもとに株式会社新光電気として改組改称された。二十三年、通信用電球「二号型ランプ」の製造を始め、翌年電気通信省(のちの電信電話公社)の指定工場となった。その後は、朝鮮戦争特需に助けられ生産を伸ばしたが、二十七年には機械式クロスバー交換機の電子化への切りかえがはかられたため、技術転換をせまられた。そして、大きな資本と技術力を必要とする半導体関連分野へ進出するために富士通の傘下にはいることを決め、三十二年、富士通の資本を受けて栗田工場の建設を始めた。さらに、米国GTI社からガラス端子の量産技術とメッキ技術を導入、三十八年六月には、更北工場が開設された。四十一年からは、本格的にICパッケージDIP10の生産を開始、その後一〇年にわたって生産を伸ばしていった。こうして、同社はコンピューター等に使われる半導体の密封技術を主とした部品生産を中心に展開するようになっていった。この間、多層セラミックパッケージやリードフレームパッケージなどの新技術開発がおこなわれたり、社員の主体的な品質向上運動がなされたりした。四十六年からはガラス端子の本格的輸出も始まった。ドルショック、オイルショックの際には、大きな痛手を被ったが、富士通より資金援助を受け立てなおすことができた。そして、生産の増大と共に七二会や新潟県吉川町、韓国などに生産子会社の設立も盛んにおこなわれていった。
なお、昭和四十年から同五十年までの長野市域の産業別就業人口の推移(表16)によれば、この期に際立(きわだ)った変動として、農林水産業の一万人以上の減少があげられる。いっぽうで、建設・製造業では合わせて一万人近くの増加、卸売小売業とサービス業で合わせて一万六〇〇〇人余りの増加がみられる。長野市域では、農林水産業といってもほとんどが農業であるが、就業者の総数で一万七〇〇〇人余りの増加があるなかでの農業就業者の一万人余りの減少は、「農業離れ」の様相を示している。実際、中学や高校の卒業者で農業に就くものはほとんどなく、二次三次産業の会社工場に入っていった。当初「金の卵」として県外の大都市部へ集団就職していく動きもみられたが、このころには、長野市域の企業が人手不足に悩むようになり、市域の若者は建設・製造業や小売卸売・サービス業の発展を支える重要な労働力となった。