商工会議所と商業の発展

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昭和三十六年(一九六一)に同時開催された善光寺の開帳と長野産業文化博覧会は、長野市の戦後経済の復興と成長の節目のひとつとなった。会期前に、新市民会館が完成した。長野駅の増改築、駅前広場の整備もおこなわれ、列車ダイヤも充実された。市内の店舗や社屋の近代化もすすめられ、また、権堂町の全面アーケード、末広町の歓迎ネオンアーチも完成した。以後、昭和三十九年から四十年にかけてのいわゆる「四十年不況」をはさんだ第一次、第二次高度経済成長期において、長野商工会議所が事業活動を通じて中小企業の近代化を支援し、産業経済の側面から長野市の発展に尽くしてきた役割りは大きい。この時期、戦後復興の一〇年間をになってきた笠原十兵衛にかわり、昭和三十一年から一五年間にわたって第十二代会頭をつとめたのは小坂武雄であった。


写真44 昭和35年に60周年記念で新築された長野商工会議所

 三十五年の長野市振興五ヵ年計画達成に向けて、長野商工会議所は、三十六年三月「経済施策に関し商工会議所の意見を求むることの建議」を提出した。これは、目的達成のため市をあげての体制が必要であり、業界の利害にかかわる施策に関して商工会議所に意見をもとめることを慣例にしようとしたもので市政に積極的にかかわっていった。三十七年三月の市工業振興条例改正の際、市は商工会議所に意見をもとめ、指定工場とそれにたいする奨励金に関しての意見を全面的に取りいれて改正した。これにより、三十七年末からは会議所と市政との連携はいっそうすすんだ。三十八年三月に出した「市政更張(こうちょう)に関する建議」にたいして、市は、①工場団地の造成、②工場誘致の推進、③裾花ダムの早期完成による工業用水の確保、④信越線の全線電化と複線化促進、⑤労働福祉センターと店員寮の新増設、⑥中小企業への特別金融措置、⑦長野郵便局跡地対策、⑧長野電鉄踏み切り対策、⑨駐車場の設置、などの項目について、それぞれに具体的に回答し、その後の施策をすすめている。また、合併後の四十二年には会議所の要望を受けいれて経済部を改組し、農林部と商工部に分けた。

 中小企業の近代化・合理化に果たした商工会議所の役割りは大きかった。長野市商店街の一斉休業制度は、三十六年から本格化した。中央通り商店会(横町-末広町)と権堂商店会が合同で申しあわせ、第一第三月曜を一斉休業とした。翌三十七年には第二月曜も休みとし完全週休へ前進させた。同年から、県商工部の指導により、商店街の協同組合化の動きも始まった。商店会を法人化して近代化の共同事業をすすめやすくするためである。こうして、四十年三月には「権堂商店街協同組合」、五月には「協同組合ナガノ駅前センター」が発足した。

 中小企業の近代化、合理化をさらにすすめるために集団化策がとられた。市内上千歳、権堂の繁華街にあった市場についても交通渋滞、騒音、衛生などの環境面から問題となっていた。市は、木工団地につづいて若里の市有地には生鮮食料品卸売市場団地を造成して四つの市場の移転をすすめようとした。途中問題も生じたが、四十年十月には県下初の大市場団地が完成した。市場団地の造成運営主体は長野中央市場協同組合で、長印長野中央青果・丸果北信青果・丸一長野中央・丸水長野県水・長野生鮮食料品商業協同組合などが加入している。さらに、市街地に多い卸売問屋についても、郊外に卸売団地をつくろうという夏目幸一郎(四十三年から副会頭)の呼びかけで、長野総合卸商業協同組合を結成した。委託を受けた市が川合新田に約一〇万平方メートルの用地買収と造成をすすめ、四十八年七月総合卸売団地「長野卸センター」(平成五年長野アークスと改称)が完成した。


写真45 昭和40年2月完成の卸売団地

 長野商工会議所が催す検定試験は、珠算、簿記和文タイピスト、計算尺があったが、三十六年からは日本商工会議所による公務員初級試験程度の「事務職員検定試験」を実施し企業の採用の一助とした。さらに、小売業の経営者や従業員にも鉱工業分野での資格検定試験と同様に必要な資格をということで、中小企業庁で検討されてきた小売商検定試験が導入された。合格すると販売士としての資格があたえられた。

 高度経済成長は、大量生産、大量消費をもたらし、長野の小売業界にも大量仕入れ、大量販売、スーパーマーケットの波が押しよせてきた。大手デパートが全国的な展開をみせ、農協の商業活動や生協運動も活発化してきた。県下のスーパーは、三十六年ころから増加しはじめ、四十五年には全県で二六四店となった。当初は魚力(うおりき)のように単独で三五店展開した例があるが、四十年には小売商による共同仕いれ、共同企画販売で協業化するボランタリーチェーンもあらわれた。四十六年には、長野・新潟一六社七三店舗のスーパーのチェーン化がなされ、合理化、強化がはかられた。

 市内には丸光(昭和三十二年開業)と丸善(昭和三十七年開業)の二つの百貨店があったが、高度経済成長期には積極的に規模を拡大していった。丸光は昭和通りに、丸善は四十一年に駅前に進出し東急百貨店系列に入って「ながの東急百貨店」と改称している。以降、長野市には大型店の進出が相ついだ。四十三年には問御所にヴィーナス河内(新潟県高田市)、四十五年春権堂町にほていや(中京)、同年秋北石堂町にサンショッピングセンター(長崎屋と北石堂町の七店)がオープンしている。さらに、四十八年には、イトーヨーカドー、ダイエーも進出を決めた。百貨店の開業、売り場拡張申請にたいしては商工会議所の商業活動調整協議会が当たったが、市内小売商が組織する百貨店対策協議会と百貨店との間で、長野方式といわれる共存共栄的な事前調整がおこなわれた。しかし、大型店が開店するとその度に客足が大きくかわり、繁華街は善光寺門前から権堂、新田町交差点付近、長野駅周辺へとしだいに移っていった。

 北海道などで農協デパートが市街地に進出する動きが出始め、三十六年長野においても長野県経済連が、丸善百貨店内に購買商品の展示所を設けることになった。市商店会連合会は六月長野商工会議所に「即売販売が部外者販売、廉価販売につながり、商店会が大きな打撃をうける。極力防止してほしい。」との要望をだした。これにたいし、中小企業委員会で検討し商業委員会も同調して、「展示所の設置取りやめはできないが、期間を一年とすること、即売はおこなわない、さらに、農協デパートの計画には事前に話しあいの機会をとり相互共存をはかってほしい」旨の申しいれをした。その結果、「農協コーナー」として要望にそった展開となり、一年で閉鎖している。四十年代になると、農協スーパーの進出が小売業者に大きな影響をおよぼし、転廃する小売店も目だつようになった。四十一年、日本商工会議所を中心とした商業関連五団体は、農林省と通産省にたいし、農協組合員以外の利用の制限をもとめ、また員外利用の拡大をはかる農業協同組合法改正に反対し、農協と中小企業との紛争処理のために、各県ごとに公正な調整機関を設けることなどを要請した。長野県商工会議所連合会では協調路線を見いだすため、翌四十二年会議所などの県経済四団体と県農協との懇談会を開き、地域内の話しあいによって円満な措置をとっていくこととなった。消費生活協同組合についても同様の立場で対応していった。

 流通の様相が大きくかわっていくなかで、会議所の商業委員会と長野商店会連合会は、四十五年三月、合同会議をとり、五月「長野市流通連絡協議会」が設立された。流通革新時代にあって、市小売業界が新流通機構に適合、発展するよう業者間の自主的な連絡強調、話しあいの場とするものであった。四十五年、通産省は大規模小売店の店舗新増設に関して事前届出制を実施したが、あわせて日本商工会議所を通じて各商工会議所に協力を要請し、地元小売業者との調整を商工会議所にもとめた。

 四十一年十月、二市三町三ヵ村が合併した新長野市発足により、関係する三商工会議所(長野、篠ノ井、松代)の合併が当面の課題となった。合併直後の四十一年十一月、三会議所の役員が集まって懇談し、四十二年八月、三会議所、五商工会の役員と県市の関係者が第一回長野市商工団体懇談会を開き合併の要請をした。これを受けて四十三年二月、第三回の懇談会では、県庁舎落成の祝賀行事を全市を上げておこなうことを決め、その席上でも年度内決着が要請され、提案は了承されたが実現しなかった。長野会議所は、合併受けいれ態勢づくりとして、四十三年議員改選には、議員定数を二〇人縮減、それにともなう会費収入減の補強、部会の編成がえをおこなってのぞんだ。そして、四十四年二月会議所において、さらに四月保科永保荘にて懇談会がもたれたが、三会議所の合併は実現しなかった。その背景には、合併後の役員・議員の定数の問題、また、役員・議員が旧長野市から選出される公算が大きく、篠ノ井・松代の地元商店街の発展がますます遅れる懸念があること、経営指導の質的低下の懸念(限られた地域での催し物や行事などの実行について今まで通りの指導サービスができるのか)などがあげられた。

 昭和二十四年に東京青年商工会議所創立総会が開かれ、青年会議所の運動がおこった。そして、「個人の修練」「社会への奉仕」「世界との友情」の三つの信条、年齢制限(三五歳、のち四〇歳)を決め、二十六年二月には日本青年会議所が設立された。長野青年会議所は、昭和二十八年四月、長野商工会議所専務理事伊藤淑太らにより設立発起人会がもたれ、同年七月二十二日創立総会が開かれた。同年九月四日、創立式典がおこなわれ日本青年会議所に加盟した。それは全国四十九番目であった。会員四五人、当初は時局講演会、海外視察旅行、歳末慈善音楽会などの活動をした。昭和三十三年「長野JCニュース」を創刊し、三十五年には会議所内に事務所を新設した。三十七年ころから、交通安全や青少年不良化防止、都市美化キャンペーンなど奉仕活動に力を入れるようになった。そして、四十一年、取りくんだ長野市の都市再開発運動(長野電鉄線立体化など)は十一月十二日京都でおこなわれた世界会議で受賞した。また、四十六年には、びんずる祭りを生みだす力となったり、長野青年会議所で取りくんだ育成連絡協議会の結成とその活動が全国や世界で高い評価を受けて活動に盛りあがりをみせた。